33 「通航一覧」と「崎陽日録」

いよいよ35章からフェートン号襲撃の詳細について書いていく。その際、この物語の冒頭で記したように一切のフィクションを配し、全て事実に基づいて書き進めていく。推測はあるが、フィクション創作の類は皆無である。長崎を揺るがし長崎奉行松平図書頭の自害にまで至った狂乱怒涛の三日間について、当初はその詳細について五里霧中であったが、今はすべての出来事が時間単位でわかるようになった。それを可能にした貴重な資料について、ここで紹介しておく。フェートン号の襲撃から今日(2022年9月1日)まで214年の歳月が過ぎたが、当時日本を震撼させた事件だけあって貴重な資料が残存しているのである。その三日間を当時の人々と共に生きているかのように私を追体験させてくれたのは2つの歴史的資料、「通航一覧」と「崎陽日録」である。

「通航一覧」は幕府の外交関係文書を収集した膨大な資料集である。Wikiによれば『林復斎により編集された日本の歴史書(外交史料集)。 江戸幕府の命により大学頭 林復斎らが編纂した1566年(永禄9年)から1825年(文政8年)頃までの対外関係史料集(350巻)。1853年(嘉永6年)の復斎による序文があり、この頃に完成されたと考えられている』ということだ。そのうち第256巻「諳厄利亜国部五」第257巻「諳厄利亜国部六」第258巻「諳厄利亜国部七」第259巻「諳厄利亜国部八」第260巻「諳厄利亜国部九」がフェートン号事件の資料である。諳厄利亜国とは、イギリスのことである。

私はこの資料を国会図書館のデジタルダウンロードで 入手することができた。 その書誌情報によると、国書刊行会と言う機関によって明治45年の6月から大正2年の11月にかけて活字本に編纂されたものらしい。 国書刊行会による「通航一覧」は第1から第8まであり、フェートン号関係資料の256巻から260巻は、「通航一覧第6」 に収録されている。その398頁から455頁まで、実に58頁に渡って膨大な資料が収集されている。

ここには事件に関するあらゆる情報が収集されており、長崎奉行関連では廣間用人上條徳右衛門(松平図書頭の筆頭の家来で奉行の補佐役、奉行所No.2)の「用人日記」が最も重要な資料である。ここには松平図書頭以下同心(足軽格)地役人に至るまで数十名の動静が語られ、松平図書頭の憤激、部下の叱責、自ら陣頭に立って討ち取ろうという無謀な意気込み、それを必死で止める側近たち、奉行所詰めの人々の勇気と怯懦の陰影、手出しをせず異国船を出航させると決めた後の図書頭の不思議な落ち着き、その自害を発見した小姓の狂乱、など実に生き生きと活写されている。異国船の乗組員上陸の虚報が乱れ飛んだ時、上條徳右衛門自身も長槍を持って出陣しようとした瞬間があるように、この混乱のさなかにありながら上條徳右衛門は沈着に全ての事象を記録に残した。この日記によって私はほぼ一時間単位で長崎奉行所で起こった出来事を把握することが出来た。誠に貴重な資料である。だが、この「通航一覧」の欠点は資料の展開に一定のルールがある訳では無く、いろんな資料が時間的にもテーマ的にも無秩序に展開されていて、その欠点を一番に被っているのが「用人日記」で、259巻の436p上段に『長崎御使所用部屋日記』と引用元が明記されている以外、256巻から260巻のあちこちに引用されている用人日記の記述はそれと推測するしかない、つまりこの部分は上條徳右衛門の日記から引用した、という注釈も何も無いのだ。内容、場面、登場人物の顔触れからこれは上條徳右衛門にしか書けない、と類推するしか無いのが大きな欠点である。

その他の収集資料は大概出所が明記されている。フェートン号が長崎に侵入してオランダ商館員を拉致して大混乱に陥り、長崎奉行松平図書頭は長崎に蔵屋敷や藩邸がある14家大小名の聞役(ききやく)に矢継ぎ早に指示を出した。聞役たちはすぐに国許へ至急報を送り、それを受け取った各藩はそれぞれが独自に老中あてに早飛脚を送る。また大通詞たちは懇意にしている(もしくは日頃から情報提供を契約している)藩や京大阪堺の商人たちへ急報を送る。こうしてフェートン号の襲撃の3日間、夥しい数の文書が長崎から発信され続けた。長崎奉行松平図書頭から動員令を受けた警固担当の各藩がすぐに「異国船襲来と蘭人拉致の情報、そのため長崎奉行から出兵の要請を受けたこと」を老中に報告したのは、勝手に兵を動かしてはならない、という幕府の法度(はっと=規則、禁止事項)があるからである。戦国の匂いが残る元禄の頃までは兵を動員すれば叛乱と見られお取り潰しになりかねなかった。あとの章に詳述するが大村藩などは長崎へ派遣する兵団編成の細部に至るまで詳細に報告している。アメリカのペリー提督来航(1853年)を契機とする幕末の騒乱は安政の大獄(1858年)で火蓋を切るが、その50年前は幕府の威光が各藩に行き届き各藩はその忠誠の証を懸命に示していたことがこれでわかる。ただし島津藩だけは16章「島津重豪の抜け荷」で扱ったように、何食わむ顔をして抜荷をしていたのだがそれも重豪が将軍家斉の岳父なればこそ、の例外であった。

こうしてみると長崎からどれほどの飛脚が旅立ったのだろう?数十通を遥かに超える文書が発信されたのだから、それだけの数の飛脚が長崎を発ったことになる。飛脚は次の駅逓で文書を託し折り返し長崎へ戻るとしても数日は戻れまい。となると同数以上の予備の飛脚が待機していた筈である。一体、長崎には飛脚問屋はいくつあり、何人の飛脚を抱えていたのか?どの町が駅逓だっったのか?信書の受け渡しはどうやっていたのか?面白いテーマであり、いつか調べてみたい。

 

もう一つの資料「崎陽日録」は、「通航一覧」とは全くタイプの違う資料である。

『文化五戊辰年8月15日朝雨そ々ぎて天不明辰の刻少し前にもあらんか沖手に白帆の見ゆる由深堀(藩)詰松平肥前守家来鍋島七左衛門より走使をもて注進す』という書き出しで始まる。一切のケレンと装飾を削ぎ落として緊張感漂う、これからの尋常ならざる展開を予感させる名文である。 400字詰め原稿用紙に換算して約60枚の文書であるが、フェートン号の出現を知らせる注進の到着から、長崎奉行松平図書頭康英の切腹までを一気に叙述した筋肉質のドキュメントである。特に冒頭、長崎港外へ異国船の臨検に出動した検使やオランダ人、隠密方盗賊方など幾艘もの役船の、波濤高い海での苦心惨憺たる情景の描写が素晴らしい。この臨検時の詳細は「通航一覧」の膨大な文書群にも見られるが「崎陽日録」は言わば独占記事のように役船それぞれの刻一刻の動きを見事に再現している。当事者たちの報告を直接聞いたか、あるいは報告書(当時は何事もまず文書化するのが出島のオランダ人と長崎奉行所関係者に共通する慣例だった)を仔細に読み込んだか、の成果だと思われる。

私の調べた限りでは、旧長崎高商(現長崎大学経済学部)の経済学史教授であった武藤長蔵博士が発掘した。武藤博士は戦前における長崎史研究の泰斗である。博士は昭和6年内地留学で東京に滞在したおり、上野にあった帝国図書館所蔵の丹治擧直(読み不明。モロナオか?擧は挙の古字)の写本を底本として「日英交通資料」に収録したものである。武藤博士が編纂した「日英交通史料」は日本とイギリスとの史料をまとめたもので(1)から(15)まである長大な史料であるが、(7)に「崎陽日録」が収録されている。ちなみに(8)には佐賀鍋島公所蔵写本がフェートン号に関わる佐賀藩の動静を、(9)には諫早藩(佐賀藩の支藩)と大村藩の文書が収録され、特に大村藩のものは長崎へ出動した際の兵団の編成が詳述されているので、この先引用していく予定である。

これまで私にはこの丹治擧直という人の詳細が全くわからなかった。どんな検索にも丹治擧直という人物のことは出て来ない。これは歴史的文書の書き手としては異例のことである。そこで今回(2022年9月初旬)改めて「丹治擧直」でGoogle検索すると、国会図書館に加えて、真田宝物館、 北海道大学北方資料データベース、そして長崎大学図書館に「崎陽日録」が収蔵されていることがわかった。真田宝物館は、大坂夏の陣で有名な真田幸村の兄信之が関ヶ原以来徳川方に与し初代松代藩を築いたが、その松代藩(十万石)の大名道具や文書を収蔵している。8代藩主幸貫(つら)は老中として海防掛を務めた。そのせいで沿海異問など当時の海防関連資料が豊富に収蔵されているようだ。国会図書館と長崎大学図書館の書誌情報には丹治擧直について何の説明もないが、 真田宝物館収蔵の「崎陽日録」には文政4年(1821年)写本との奥書がある。さらに北海道大学のデータベースには成立年が文化5年(1808年)と明記されている。ということは丹治擧直は事件直後に(文化5年の8月中旬から12月末まで)に執筆したことになる。これが事実だとしたら大きな発見だった。

「 崎陽日録」は、野母岬沖にフェートン号を遠見番が発見してから、松平図書頭の自害までを一気にドキュメンタリータッチで展開してゆく、日本の古文書としては稀有の性格を持っている。平家物語は琵琶法師によって語られるだけに冒頭に独特のケレンがあるが、「 崎陽日録」は無駄な修辞は無く、事実の展開を淡々と、或いは関係者たちには容赦のない筆致で描いてゆく。骨太で感傷は滲ませず客観的に、かつドラマチックな表現で、江戸時代の文書とは思えないほどの現代的なドラマが展開される。この文章のダイナミズムは何だろう、と不思議に思っていたが、おそらく現地長崎で事件の記憶と興奮が生々しい時に執筆されたのだとすれば、大いに納得がいくところである。丹治擧直がどういう人物なのか、今は解明できない。未来の誰かの究明を待つばかりである。彼がどのようにして事件直後に全ての情報にアクセスしてこの全体像を構築できたのか、大いなる謎である。登場人物は松平図書頭、上條徳右衛門、用人、給人、小姓、奉行所手附、御役所附(役人)、地役人、通詞、ドゥーフやオランダ商館のスタッフ、各藩の聞役、町年寄、地下宿老、乙名、沖番所(警備)物頭、遠見番、岩原役所支配勘定/御普請役、長崎代官と手代、唐人番、大阪堺など五ヶ所宿老、御船頭隠居、深堀藩役人、大村上総介(藩主)同家老と侍大将、諫早藩家老、など数十人にのぼる。なぜこれほどの人物の登場と行動をオーケストラの譜面に各楽器のパートを書き込むように文書化できたのか?考えられるのは丹治擧直とは誰かの筆名ではないか?という仮説だ。突拍子もない想像だが、これだけの全体像を把握できたのは上條徳右衛門が筆頭であろう。検使が旗合(はたあわせ)のオランダ人二人を拉致されながらおめおめと奉行所に帰参した時の松平図書頭の激昂した描写、彼の自害を発見した現場の描写、いずれもその場に居合わせた人でなければ書けないような生々しさである。筆頭用人(家老格)としては主人を無念の最期に追いやった事件の全貌を書き残そうとしたのは十分ありうるのではないか。佐賀藩福岡藩など九州の雄藩が絡んだだけに幕閣をはじめ各方面への影響を考慮してこういう文書化を試み、丹治擧直という筆名を使ったとも考えられる。或いは筆の立つ人物に執筆を依頼したのかもしれない。いつの日か、謎の解明を待つばかりである。

最初は日本側の出来事の把握が一番の難所であろうと思っていたのが、この二つの資料で見事に解明できた。あとは、フェートン号側の行動の把握である。航海日誌は例によってこの3日間についても簡潔な記述が続くだけであり、例えば艦載艇をあ降ろしたとか引き揚げたとかの記述があるだけで、拉致したオランダ人2人をどのように尋問したとかの記述は全く無い。だがここで記録者ストックデールは思いがけない行動に出る。何と丸々1ページを費やして、初めて見た長崎港の美しさに感動したことなど個人的な感慨を書き記したのだ。そのためフェートン号が長崎港に侵入した際のイギリス側の感想を知ることができる。もう一つの資料は、ペリュー艦長が父の後任であるインド洋艦隊司令長官ドルーリー提督に提出した日本遠征報告書である。これによりぺリューが長崎襲撃の成果をどのように捉えていたかもわかる。

いよいよ、フェートン号の襲撃が始まる。縦糸として「崎陽日録」の展開を時間軸として、横糸として「通航一覧」に見られるさまざまな情報と、ストックデールの特別ページと航海日誌、ぺリューの報告書に見る彼自身の行動を織り込んで展開していきたいと思う。