20 航海目的の解明

1808年(「16 スチュワート再び」の5年後、「28 日露(魯)会談」の3年後である)8月31日、最後の寄港地であるマカオを出航したフェートン号は長崎を目指す最終行程に入った。だがそれはこれまでの航海と違って、際立った特徴を持つものである。この章では、日々の航海をデータ別に解析してその違いを見ていこう。そこにフェートン号がなぜ長崎を目指したのか、その真の目的が浮き彫りにされるからである。

その①は、大砲(18ポンド砲など)やカロネード砲(近距離戦闘用の散弾砲)、小火器(マスケット銃=海兵の小銃)の戦闘訓練が頻繁に行われることになったことである。時には連日に渡ることもあった。これは当然、近々起こるであろう戦闘を予期しての準備である。

その②は、カッターやランチなど積載ボートの修理や手入れ、ボートへのカロネード砲の搭載などの作業が増えたことである。これは敵船への乗り込みや敵地への上陸に備えたものである。

その③は、船内の洗浄回数が増えたことである。マドラス出航後、マカオで洗浄作業が行われたが、9月に入って上記の作業で大わらわの中でも洗浄を実施したということは、船内の衛生状態の悪化を示しているともいえる。

その④は、長い航海(マドラス出航以来、乗組員は上陸の機会が与えられていない)で、規律の乱れや疲労が出ていることである。9月に3回、延べ6人が138回もの鞭打ち刑を執行されている。これは明らかに乗組員の士気の低下を意味しているし、9月19日には水兵のマストトップからの落下事故が起きた。これについては後で詳述するが、マドラス出航後初めての落下事故だけに疲労が原因ともいえるだろう。

その⑤は、これが最も特異な点であるが、日々の航跡がこれまでとはガラリと変わったことである。

その⑥は、9月後半の航跡にある意図が読み取れることである。

順不同ではあるが、まず⑤の航跡から見ていこう。7月10日のマドラス出航から19日のマラッカ海峡入り口までのFirst leg(第1行程)は直線的であり、1日平均275㎞という快速である。Second leg(第2行程)はマラッカ海峡入り口から現シンガポールまでで、これについては後述する。Third leg(第3行程)はシンガポールからマカオまでは1日平均315㎞という高速で航海している。

ところがマカオを出た後、台湾海峡に差し掛かると急に船足が落ちている。

図3  さらに台湾海峡を出て温州寧波沖合の東シナ海では半円形を描くような航跡になる。

 そして9月中旬には五島列島南方海域に張り付いて連日小刻みな移動を繰り返している。

 これはどういう意図を持っているのか。これは海上パトロール(哨戒)特有の行動で、何かを捜索している航跡である。何を求めていたのか。長崎と行き交うオランダ船である。「6 ベンガル湾を西へ」で見たように、9月になってモンスーンをもたらした赤道低圧帯が南へ移動し、風は西風から東風に変わる。つまり長崎に来航したオランダ船がバタビアへ戻る季節になったのである。オランダ船はドゥーフの証言にあるように(15 スチュワートの登場)、台湾海峡を通航して南下する。決して台湾の東側を通航しない。すなわちフェートン号の航跡はオランダ船の航路上を見張っている行動なのだ。上記で見た①の頻繁な火器演習と、②の積載ボートの念入りな手入れとカロネード砲の搭載は、オランダ船の拿捕に備えたものである。当時の商船は敵国軍艦や海賊の襲撃に備えて十数門の大砲を装備した武装商船である。とは言っても、40門近い重装備のフリゲート艦の敵では無いのだが、砲撃戦になる可能性は十分にある。商船の戦意が失われると、マスケット銃と銃剣で武装した海兵や水兵が乗り込んで拿捕することになる。それに備えて戦闘訓練が必須となる。マドラス出航後はこれまでわずかな演習しか行われなかったが、ここに来て一気に練度を高めようという意図が明らかである。敵艦乗り込みや、長崎襲撃時に備えてカッターやランチなど積載ボートもいつでも海上で行動できるように整備し、さらに小型のカロネード砲まで装備している。乗組員には緊張が高まっていたと思われる。下の図に火器演習を行った日は大砲のアイコンで、ボートの整備を行った日をボートのアイコン で表示した。台湾海峡に入り、長崎沖を遊弋するまで、一気に訓練の度合いが高まったことが一目瞭然である。

だが台湾海峡(第1哨戒区域)でも、東シナ海(第2哨戒区域)でもオランダ船は現れなかった。そこでフェートン号は北東へ移動し、済州島から薩摩(鹿児島)沖合の海域を遊弋する行動に出る。南北ほぼ270㎞ある海域を入念に捜索しているが、特に長崎から台湾へ向かう航路に集中している=第3哨戒区域。ここでの航跡は、さらに際立った特徴を見せる(その⑥)。そしてそれはこの航海の背景を明らかにしてくれるのだ。この物語におけるこの発見は極めて大きな意味を持つことになる。

 

フェートン号が第3哨戒区域で最も長崎に接近したのは、9月30日である。その他の日々はいずれもこれ以上の距離を長崎と保っている。では、なぜ9月30日の地点より長崎へ接近しなかったのか?これが大きな鍵となる。

2001年に『白帆注進―出島貿易と長崎遠見番』(旗先好紀/江越弘人 長崎新聞社刊)という優れた研究書が出版された。この研究の内容は後の章で長崎警備体制について述べる時に詳しく紹介するが、ここでは次の点に注目しておきたい。長崎周辺には多くの遠見番所が設けられているが、中でも公儀(幕府)直轄の遠見番所である長崎市街対岸西方の小瀬戸と、長崎から南に延びる野母半島先端の権現山(標高195ⅿ)の二つが一番遠くまで見通しが利き、この二つの公儀遠見番所は互いには異国船発見の早さを競っていた。東シナ海に張り出した野母の権現山は常時二人の当番(公儀役人、長崎奉行配下。定員22名。『召し抱えられた遠見番は、江戸時代初期に多くの大名が改易され、天下にあふれ出た浪人たちである』「白帆注進」21p)が望遠鏡で西から南の海上に目を光らせていた。『遠眼鏡』七挺が配備されていたというが、オランダ渡りの極めて高価で精巧なものだったろう。唐やオランダとの貿易の利潤で裕福な長崎奉行所ならではの装備品であり、装備数である。地球は丸いから帆船が近づくと、まず兎の毛のような細い線が見える。やがて白い帆が見えてくる。ここで「白帆注進」という第一警報が信号旗(野母→小瀬戸→十善寺→筑後町観善寺→長崎奉行立山役所)と早舟で奉行所へ伝達されるのだ。海上は靄や霧が多い。1804年のロシア使節レザノフが来航した時は十五里約60㎞で発見していたという記録がある(「白帆注進」27p)。だが条件が良い時は160㎞まで視程が利いたということが「白帆注進」28pにある。ここがポイントである。長崎に最も接近した9月30日は野母から160㎞の地点である。その翌日もその前の日々も常に長崎と160㎞以上の距離を取って遊弋している。いくつかの疑問が湧いてくる行動である。

  • この海域に達した9月16日から10月3日まで18日間に渡って、なぜ遠見番所から発見されないように航海したのか?
  • なぜ遠見番の視程が160㎞までであることを知っていたのか?
  • なぜ哨戒を18日間も続けたのか?

求めていたのはオランダ商船である、と書いた。実は、上記Second leg(マラッカ海峡入口)でも、同様の哨戒活動ととれる航跡を残している。順番に言うと⑴マラッカ海峡入口⑵台湾海峡⑶東シナ海⑷長崎沖合、の4か所で哨戒行動を行ったことになる。これが意味するところは、フェートン号の目的の第一は「海上でのオランダ商船の拿捕」であった。これら4つの海域でオランダ商船を首尾よく拿捕していれば、フェートン号はそこからマドラスに戻った可能性が高い。それ以上、長崎へ航海する必要が無いからだ。だが、恐らく父ペリュー提督と息子ペリュー艦長は海上拿捕の可能性が低いことも分かっていた。なぜなら長崎へ来航したオランダ船のバタビアへの出航期限は10月23日であるからだ(白帆注進55p)。もしそれより早く出航していれば洋上で拿捕する。出航していなければ、長崎を襲撃してオランダ船を拿捕する。これがシナリオだったのである。つまり、オランダ船の襲撃こそが目的だったのであり、長崎襲撃は「長崎港内でオランダ船を拿捕するという最終案」であり、同時に必要あれば補給のためであった。それは長崎襲撃時のペリュー艦長らの行動で明らかになる。なぜ洋上での拿捕を優先したか?フェートン号にとっては国交のない長崎へ侵入するより洋上での拿捕がずっと安全だったからである。長崎港内でのオランダ船襲撃という軍事行動は日本側の反撃がありうるから、最後のオプションであったろう。

ここまで紐解くと、背後に見えてくるのはあのスチュワートの影である。長崎滞在合計2年の間にスチュワートが仕入れた膨大な情報がそこかしこに見えるのである。遠見番所の配置と視程。これが第3哨戒区域でフェートン号が保った長崎との距離を説明してくれる。オランダ船を待ち伏せするには、フェートン号が長崎沖で遊弋していることを秘匿する必要があった。沖合に英国軍艦がいることが分かれば、オランダ船は長崎を出航しないだろう。そのためにスチュワートがもたらしたに違いない遠見番所の最大視程が戦術上重大な意味を持ったのだ。またオランダ船の出航期限が10月23日(和暦では9月20日)であることもスチュワートが情報源であったろう。このあと10月4日に長崎港を襲撃した際、フェートン号はオランダ船と同じ入港手順を知っていたが、どこからその情報を得たのか?また取り押さえたオランダ商館員に「オランダ船は2隻いるはずだ」と詰問している。なぜ2隻という判断をしたのか?イギリスは平戸時代に国禁対象となって以来、こういう日本の情報を入手できない状況にあった。それを補ったのは、スチュワートに間違いない。1803年に「長崎丸」を仕立てて長崎へやって来たスチュワートはその直前にオランダ船の船長からインドのベンガルで目撃されている。長崎から退去させられた後も、当然スチュワートはベンガル地方へ戻ったろう。そして1807年にニューヨークに現れるまでの期間、ベンガルにいたはずである。スチュワートがこれらの情報をどういう風にイギリス側へ渡したのかは分からない。私の勘としてはタダではないと思うが証拠はない。だがあのスチュワートである。オランダ商館から横領した自分の銀が現在の価値で十数億円であることを吹聴したであろう、そしていかに長崎から帰るオランダ船が宝の山であるか、と確信させたに違いない。それに乗ったのはペリュー提督であったろう。十数億円の銀を拿捕すれば(銀以外の積み荷も価値は高い)息子フリートウッド・ペリュー艦長の取り分は少なくても数億円以上になる筈である。これが軍事作戦的には意味のない長崎襲撃の、真の目的だったのである。ペリュー艦長はオランダ船以外には長崎に何の興味も無かったのはそのせいである。後のラッフルズのようにイギリスとの国交を要求することもなかった。フェートン号単艦によるオランダ船拿捕こそが目的であった。父ペリュー提督は念願の本国帰還が決まっていた。彼がインド洋艦隊の司令長官であるうちに、息子たちの未来を築かねばならない。幸い、長男のポウノルはマドラス総督のバーロー卿の娘と結婚した。富裕な結婚先とペリュー提督自身の資産を受け継ぐ長男ポウノルは、海軍士官としては凡庸であるが、大過なく過ごせば一生名誉と資産に恵まれて幸せに暮らせるはずである。次男のフリートウッド・ペリューは兄とは全く違う。フリートウッドは父エドワード・ペリューの勇敢さを持つ、美しき若き士官である。父ペリューは彼を自分と同じように超一流の海軍士官に成長させたかった。息子フリートウッドは20歳にも満たないのに立派な艦長として活躍している。だが彼はまだ獲物に恵まれていない。彼はジャワ作戦などで既に何隻ものオランダ艦を拿捕しているが、いずれも獲物としては小粒である。当時の有名なフリゲート艦の艦長たちはスペイン船やフランス船を襲って、それぞれ父ペリューに劣らぬような莫大な財産を手に入れている。そういう時に降って湧いたのが、スチュワートによる詳細なオランダ船と長崎の情報である。平戸時代に家康により国禁とされたイギリスが手を出せない日本との貿易はオランダが独占しており、毎年大量の銅を買い入れて、インドやヨーロッパで高値で売り払っているのは余りにも有名な事実である。ナポレオンが率いるフランスの属国となったオランダの商船は拿捕の対象となる。襲い奪っても何の懸念も無い。歴戦のフェートン号を長崎近海への遠征に出すのはインド洋艦隊にとっては痛いが、後任のドゥルーリー提督が既に到着していることを考えれば、今しかチャンスはない。ペリュー父子に反感を持つ彼は必ず反対するからだ。こうして父ペリューは息子フリートウッドにとてつもない機会を与えたのだ。ドゥルーリーがインド洋艦隊司令長官に就任すれば、この機会は失われるだろう。自分が司令長官のうちにフリートウッドを遠征させなければならない。こうして7月になってわずか18歳の息子を歴戦のフリゲート艦フェートン号の艦長に任命して、慌ただしく日本遠征へ旅立たせたのである。日本遠征の名誉と、ついには提督に登り詰める時の後ろ盾としての莫大な富を求めて。