30 松平図書頭

松平康英は前田隠岐守清長の3男(崎陽日録によれば次男)として生まれた。父清長は高家旗本前田家の3代目の当主である。高家とは幕府の儀典係で、由緒正しい家柄である。高家といえば有名なのが、浅野内匠頭に松の廊下で切り付けられて赤穂浪士に討ち入られた吉良上野介があまりにも有名である。長男の珍長が家督を継いだので、2千石の旗本松平舎人康疆の養子となった。高家は格は上だが小禄(1000石程度の高家が多い)だけに、2000石の松平家の養子になることは康英にとっては幸運であったに違いない。だが恐らく家督を継ぐべき男子に恵まれなかったと思われる松平家にとっては、康英を養子に取ったのは大成功であった。最終的には長崎奉行という大出世を果たしたからだ。           

松平康英は1768年(明和5年)に前田家に生まれた。松平家の婿養子縁組がなったのは1777年(安永6年)だからこの時9歳である。婿養子ということは、松平家は娘しかいなかったのだろう。養子縁組にあたり、松平家は婿の生まれ年を1761年(宝暦11年)としたのだが9歳では婿殿として幼なすぎるので7歳嵩上げして16歳という事にしたのではないだろうか。とすると松平家の娘は婿殿より年上だったのではないか、という推測も成り立つ。フェートン号事件を特集した江戸期の文書「崎陽日録」(丹治擧直著)によれば、『図書頭は高家前田隠岐守の次男にして松平周防守の末家松平舎人の養子と成給ひ高二千石播州の門にて順して居屋敷湯島天神下に住し安永6丙年(1777年)10月8日家督を継ぎ小普請入りし天明8申(1788年)12月24日中奥御番に召し出され寛政元酉年(1789年)11月17日御袴頭仰せ付けられ寛政8辰年(1796年)5月24日西の丸御目附となり寛政12午年(1800年)5月20日御目附 享和2戌年(1802年)8月11日御召御船手を兼任 文化4卯年(1807年)正月晦日長崎奉行任命同年7月23日江戸を発ち9月5日立山の庁(奉行所)』に着任したとある。西の丸目附に実年齢28歳で就任、実年齢33歳で御目附、41歳で長崎奉行という要職に就いたのだから、順調以上の出世である。極めて能吏であったと思われる。

幕府の目附は「幕府の監査をつかさどり、儀礼的な側面だけではなく、むしろ幕政についても多種多様な事項に対し関わりを持つ目附は幕府役人の俊英中の俊英であり、政策通でもある。十八世紀は定員十名となっている。そのような幕府の中枢にいたものこそが、長崎奉行になるにふさわしいことになる。単に一地方行政の専門家ではなく、貿易や異国人の取扱いなど、様々な分野での行政能力が要求されるのが長崎奉行であり、職の性質上、との親和性が高いと言える」(「長崎奉行の歴史」木村直樹39%)というエリート職だから凡庸な人材ではつとまらない役職である。歴代の長崎奉行のうち21名が目付出身であるから、西の丸目付けとなった松平康英は長崎奉行への指定席を若くして手に入れたのだ。11年後、幕府にとっても極めて重要なこの役職に松平康英を選抜したのは老中クラスのトップ官僚だったろうと思われる。「利権3億円」(「長崎奉行」外山幹夫)と言われる垂涎の的の役職を、俗に言われるように「三千両の猟官運動」で手に入れたのかどうかは不明だが、本人の実力への評価が高かったからだと思いたい。

長崎奉行職は任官にあたり将軍に拝謁し、直々に言い渡される。過去に家光の訓示があり、それは次のようなものだった。「長崎奉行」外山幹夫に、

「『大猷院殿(徳川家光)御実紀付録』によると、甲斐庄喜右衛門が長崎奉行(18代 筆者注)に就任したとき、彼は将軍家光の御前に召され、わが国が、もし外道によって、いささかでも領土が掠められるようなことがあれば日本の恥辱であるぞといわれ、その責任の重大さを家光自ら彼に説き、『さらば長崎奉行の職は大事なれば、よく心ゆるびなく、おごそかに慎むベし』と、かえすがえす言い含められたという)」(19p)。この家光の訓示は代々言い伝えられ、長崎奉行に任命された松平康英は家光の言葉を身が震える思いで噛み締めて第十一代将軍家斉に拝謁したに違いない。

先の「29 長崎奉行」で松平康英の「家来一党百名余」と書いた。この内訳はどうだったろうか。松平康英の十代前、ちょうど30年前に着任した末吉利隆の記録によれば『家老を筆頭に用人・給人・納戸・近習・勝手役・中小姓・右筆・医師・御供目付・徒士目付・足軽小頭・坊主など』が20名ほど(「長崎奉行の歴史」木村直樹)。この20名は軍役(戦時)の際は侍として出陣する。この他に『足軽や中間といった下級武士である武家奉公人』が80名ほど従っていた。彼らは軍役の時には槍を持って足軽となる人々である。この中には「渡り中間」と言って、今の派遣社員のように職場(武家)を渡り歩く者もいる。中でも20名の松平康英の主たる家臣団はそのまま長崎奉行所で奉行の側近として公職に就き、勤務した。家老は記録の中に登場する「用人上條徳右衛門」であろう。彼はのちに詳述するが廣間用人として奉行所のNo.2の役目となる。だが、江戸を発つまで長崎のことは何も知らない彼らである。市中取締りや行政の経験はない。それにたった20人で巨大な長崎経済を統括する長崎奉行所の管理ができるはずがない。抜荷監視を始め他の天領にはない経済犯の取締り業務の負担も大きい。そこで幕府は御家人から与力5人、のちに6人を「手附(与力のこと)出役」(今の言葉なら出向であろう)、さらに同心20名を選抜して長崎へ派遣し、長崎奉行所で勤務させた。彼らは奉行の家来ではないが、奉行所の幹部役人として奉行に仕えるのである。与力とは寄騎とも書くように、旗本八万騎と称した騎馬武者のことでもある。旗本より下のランクで「御目見以上」といわれる将軍に拝謁できるの御家人である。同心は馬に乗らない徒士(かち)武者。彼らは御家人の最下層であり、将軍には拝謁できない。時代劇で岡っ引を引き連れて登場する着流しの武士が同心であり、与力は正装して屋敷で同心の報告を受けるシーンを見ることができる。本馬晴子の研究論文「長崎奉行所組織の基礎的考察」(藤木文庫「崎陽」2号掲載)は、この手附出役の人員詳細を発掘した実に貴重な文献である。これによれば、奉行が交代すれば与力同心も一新されている。また彼らも長崎へは単身赴任である。これは土着化による「役人の汚染」、つまり幕府が魔窟と認識していた「長崎の経済利権構造」に毒されることを避けたのである。だが、全くの未経験者では業務遂行に支障が出る。だから再赴任というケースが多い。数回のみならず、5回6回と出役したものが多い。松平康英に派遣された与力は表の6人である。最軽輩の鈴木幸太郎のみ初任で他の5人はいずれも再任である。目安方の菅谷保次郎と上席呈書の上川伝右衛門の二人はフェートン号入港の際に大失態を犯すことになる。これら与力同心も凡庸では務まらないため幕府内で優秀者を選抜したようだ。「17 近藤重蔵の探索」で取り上げた俊才近藤重蔵も手附出役(目安方)としての長崎赴任であった。この手附出役は与力たちにとっても大きなチャンスであった。大井昇「長崎奉行所の手附(与力)の実態」(「洋学史研究」第30号)によれば、手附(与力)の俸禄は100俵(35両)であるが出役(出向)としての手当金70両がつき、合わせて105両、現代の価値(1両10万円)で年収1050万円になると推測している。つまり給料が倍増して中流の上とも言える年収になり、しかも長崎では奉行に劣らず彼らへも様々な付け届けがあったろうから、江戸の窮屈な暮らしとは全く別世界で暮らす思いであったろう。そのうえ単身赴任である。2000人近い地役人を統括する立場だから限度はあるが、飲み食いの楽しみに加え、丸山という遊郭で羽を伸ばす機会もあったろう。だから長崎への出役選抜に当たっては、志願者は皆目の色を変えたのではなかろうか。

では奉行とその家来、幕府から派遣された与力同心たちが統括する奉行所はどのような規模であったのか?奉行所には何人ほどのスタッフが常駐していたのか?これには正解と言える史料が今の所見当たらない。何しろ地役人の数が多すぎて、日常どこをオフィスにしているかわからない役人が多いからだ。毎日奉行所に勤めていた役人はざっと見積もって150から200人前後ではなかろうか?フェートン号事件に関するあらゆる文書や記録を網羅した幕府の公式外交史「通航一覧」には多くの役人の行動が記録されている。それは今後の章で紹介していくが、奉行所関連の役人と思われるのは数十人であるが、手附(与力)を除けば同心がどの人物なのかは判然としない。手附(与力)6人、同心20名、の他は30名ほどの地役人を合わせて計60名近くが幹部級として奉行所に常駐しており、他は雑役(門番、玄関番など)を担う軽輩たち、合わせて200人以上という規模ではなかろうか。スタッフの質と数で言えば、長崎奉行所は司令部、今の会社組織で言えばホールディングカンパニーのようなもので、武装組織としての機能(実力)はほとんどなく、武力は佐賀藩(鍋島)福岡藩(黒田)という大藩が「長崎勤番」として常時1000人の警護団を駐在させて担っていたのである。これがフェートン号が長崎港を襲撃した時の悲劇の素(もと)となる。

さて長崎に赴任した松平図書頭は前任の奉行曲淵甲斐守と入念な引き継ぎを行ったに違いない。歴代の長崎奉行は常にその時代特有の課題を抱えていた。初期はキリスト教の徹底的な弾圧と、一方的に国交断絶されたポルトガルによる2度の国交回復を願う使節の上陸阻止が大きな課題だった。元禄期頃よりは巨大なバブル経済に成長した長崎の貿易をさらに進展させることによる幕府への上納金の拡大、と同時に長崎の町民による放埒な自治的貿易業務を幕府のコントロール下に置こうとする課題に何人もの奉行が奮闘した。しかし23章から28章で解説したレザノフ来航(4年前)とその時の幕府の極めて無礼な扱いに報復するロシアの襲撃事件が蝦夷で頻発し(樺太や利尻島。魯寇と称された)、ロシア船対策が幕府の重要課題となっている。考えてみればロシアは日本訪問に備えて、シベリア(イルクーツク)にいた漂流民をペテルブルグまで呼び寄せてロシア皇帝が謁見し、日本の着物を新たに仕立て金銀まで渡して日本へ送り出した。その報いがレザノフ一行を半年間幽閉した挙句の国外追放なのだからロシアの憤激も当然である。ロシアだけではない。この年の4月広東より出航したアメリカ船エクリプス号が水と食料の補給を求めて突然長崎へ現れた。エクリプス号の船長が同伴していた妾(女)はサンドウィッチ諸島出身の女性で顔面いっぱいに刺青をしていたため長崎中の評判になった。このように寛政から文化にかけて1800年前後の長崎はスチュワートの出現、ロシア使節レザノフの来航、エクリプス号の寄港など、日本周辺に鎖国を揺るがす状況が出現している。曲渕は長崎港の警備体制や砲台の設置など、松平にしっかりと助言したに違いない。曲淵がいよいよ江戸へ向けて出立という時にあたっては二人で会食して交代の儀式が完了となる。会食後の茶菓子には「カステイラ」や「カルメイラ」という長崎ならではのエキゾチックな菓子が供されたことであろう。この会食をもって松平図書頭が正式に長崎奉行となり、仮住まいの西役所から諏訪大社脇の立山御役所へと移ることになる。曲淵は江戸へ戻り、在府長崎奉行として長崎勤番奉行である松平図書頭からの報告を老中へ届ける役目となる。長崎湾に突き出た長い岬(長崎の語源)の南端の丘に聳える西役所は眼下には出島、湾の彼方には東シナ海につながる海原を望見できる。この年は2艘のオランダ船が来航していた。実は2艘とも傭船で1艘はアメリカ船マウントバーノン号、もう1艘はデンマーク船スザンナ号であるが、ドゥーフは風説書にオランダ船と偽りを書いている。当時の通詞や貿易に携わる人々は乗組員たちがオランダ語とは違う言語を話していることをスチュワート来訪時の経験からよく知っていて、それは奉行所の一部のスタッフも心得ていたはずだが面倒を避けるためかドゥーフの言い分を鵜呑みにしていた。そのような現場の生の声が奉行の曲淵にまで届いてはいなかったのは、フェートン号事件後の調査の過程で明らかになる。もちろん新任の松平にはそのような事情はわからなかったろう。それはともかく2艘の異国船が朝な夕なに放つ礼砲のドーンと言う腹底に響く砲音は、松平図書頭に自分が生まれ育った江戸や長崎への道中に見た京大阪や他の町々とは全く違う、日本の唯一の世界への窓の管理者になったことを痛感させ、その責任の重さを再認識させたことであろう。この西役所から立山御役所へは岬の背骨にあたる1kmあまりの大通り。長崎への道中と同じ十万石大名並の行列であったろうから20分ほどかけてゆるゆると進んだのかもしれない。物見高い長崎の人々の見物で大通りの両脇は鈴なりの人だかりであったろう。立山御役所は3千3百坪を超える。西御役所は千六百八十坪だから、倍の広さになる。その壮大な館の一番奥まった書院が長崎奉行が大名などの貴賓客を迎える際の公式の場所になる。長崎歴史美術博物館の一角に再現された長崎奉行所屋敷でこの署員を見ることができるがそれほど広大なものではない。上條徳右衛門(松平家の筆頭用人もしくは家老)が廣間用人として長崎奉行所のNo.2として2百人以上(推定)の奉行所詰役人を指揮していくことになる。

曲淵が江戸へ向かうと、松平図書頭は長崎の町に通暁するために市内巡察を盛んに行ったことであろう。その様子はどうだったか。松平康英の約100年前に日本に滞在したケンペルによると、長崎奉行の市内巡察の行列はつぎのようである。

「最初に引馬を牽く。つぎに四人の従土が行く。つぎに奉行は駕籠に乗り、周りに四人の中小姓が従う。後に二人の槍持がつき従う。つぎに家老・与力・同心等数人、最後に奴僕、これは奉行の奴僕も、その他の役人の奴僕も従う(「長崎奉行」外山幹夫21p)。」

これが唐人が長崎王と呼んだ長崎奉行の威厳である。長崎奉行が着任後、長崎のどういう場所を巡察したかは記録に残っていない。出島や唐人屋鋪も巡察したと思うのが当然だが、「新長崎年表」には奉行の巡察の詳細はほとんど記録されておらず、また「長崎オランダ商館日記」にもドゥーフの記述には奉行訪問の記録は今の所見当たらない。長崎奉行の日常は意外なほど知られていないのだ。のちに述べるが松平康英はフェートン号の襲撃事件の幕府の徹底的な調査で、奉行所内での素顔が覗かれるのが救いである。

長崎奉行の重要な任務の一つは、西国大名なかでも九州諸藩の統制である。九州は唐船や異国船の漂着が多い。九州だけでなく、日本海や東北地方、蝦夷地に漂着した船も長崎へ回送される。中には漂着を装った抜荷船もいる。その抜荷を諸藩にしっかりと取り締まりさせることが長崎奉行の任務である。島津重豪の章で見たように薩摩藩は九州沿岸で唐船と抜荷を働くだけでなく、長州沖で朝鮮の船との抜荷の嫌疑もある。松平康英が赴任した時、島津重豪はまだ健在で、奉行拝命にあたって松平康英が拝謁した将軍徳川家斉の岳父でもある。こういう微妙な政治問題も絡む抜荷取締に加え、遠く北方のロシアの動きがレザノフの来訪で長崎まで及び、さらにその時の扱いをめぐって憤激したロシア側の魯寇事件(蝦夷地を急襲)が起こり、ロシア船の警戒も近年の大きな課題となっているのだ。

九州は雄藩が多い。しかもほとんどが外様大名である。薩摩(島津)藩73万石(但し前述したように徳川将軍家とは縁戚関係にある)、福岡(黒田/筑前)藩47万石、佐賀(鍋島/肥前)藩35万石、熊本(細川/肥後)藩54万石、などである。これらの大名に対し、将軍名代としての威厳を保たなければならない。これだけ見ても凡庸な旗本ではとても務まらない職責なのがよく分かる。

先に福岡藩と佐賀藩は長崎勤番と呼ばれる特殊な任務を帯びている、と書いた。両藩は一年交代で長崎港口の戸町と対岸の西泊の番所(沖両番所)に警備兵を千人常駐させる義務がある。藩士を長崎に千人常駐させるということは大変な財政上の負担となる。このため『両藩は江戸参観を年間100日に短縮されていた。このため両藩主は世に「百日大名」と呼ばれた』(外山幹夫「長崎奉行」49p)そうだ。そういう責任を負っている両藩であるから藩主が長崎を訪れることもあり、その際は必ず長崎奉行を表敬訪問していた。両藩主に限らず大名が長崎を訪問するときは長崎奉行を表敬訪問するのが勤めとなる。ただし勝手に長崎へ行くわけにはいかない。島津重豪が1771年(明和8年)長崎を訪問したときは幕府の許可を得てのことだった。このように大名が長崎奉行を表敬訪問した時の様子はどうだったか。「長崎奉行」(外山幹夫、22p)にその様子が記録されている。

『鍋島直正が来崎して長崎奉行所を訪れ、ときの奉行川村対馬守修就(ながたか)に拝謁したときの模様は、対馬守の家臣酒巻興敬の記すところによると、つぎのようであった。〔鍋島藩主は〕麻上下にて表広間へ一旦御休息の后(のち、更に修就君に初対面也。其式最鄭重。 座敷上段間に修就君麻上下にて着座。鍋島侯は下座よりすり足にて進み奉伏(ふしたてまつり)、公方様(将軍―著者注)益(ますます)御機嫌宜(よろし)と述ふ。修就君は着座の儘、御機嫌よろしと答。右畢(おわる)と直(ただち)に席を改め、鍋島侯ハ客席着座、修就君より主人席に就き、初対面の挨拶あり。熨斗三宝、茶菓子の饗応あり、暫く対座の後、侯は退散(鼠ひ出草』)。ということになる。これを対馬守は玄関まで見送る。その後、しばらく時をおいて、今度はその答礼として、対馬守が鍋島侯の旅宿となった佐賀藩の蔵屋敷を訪問する。その後、後に述べるよ うに、鍋島侯から対馬守にあて莫大な贈物が献上された。その後、黒田(福岡藩)・松浦(平戸藩)・ 小笠原(小倉藩)などの諸大名の来崎があったが、ほぼ同様のことであったという。ただ大村侯 (大村藩)のみは親戚格の扱いで、挨拶もそこそこに、中座敷へ通し、酒肴を振舞うという慣例で あったとしている。かつて大村氏が戦国時代純忠当時、長崎を領有していた経緯によるものとみられる。』

長崎に赴任する奉行の行列は10万石大名並みの格であったと言ったが、35万石の大名鍋島侯と対面するときのプロトコル(儀式)を見れば、将軍並みの格として扱われている。長崎奉行は将軍の名代であるから当然といえば当然であるが、2000石程度の旗本にしてみれば大大名が「最鄭重」に畳に伏して挨拶されるというのは、江戸にいた時想像も出来ない事ではなかったろうか。前職の目付という役職が江戸城内で大名と接する時にどのような礼儀であったのか今現在は見当がつかないが、少なくとも大名が目付に伏して挨拶するというようなことはなかったろう。これをもってしても長崎奉行と言う役職の重大性がよく分かるのである。そしてまた何度も言うが凡庸な旗本で務まる役職ではなかった。

歴代の奉行の日常についての記述はほとんど残っていない。しかし松平康英については多少の資料がある。それはフェートン号事件に関して膨大な記録が残され、その中に悲劇の主人公としての松平康英の日常を描いたものがあるため、我々は彼の日常を垣間見ることができる。通航一覧はこの時期の外交に関しての資料を編纂した幕府の公式文書である。フェートン号襲撃事件の後、幕府(事件後長崎に急派された江戸在府長崎奉行曲淵甲斐守景露が指揮したのであろう)は事件に関する膨大な資料を収集した。これにより我々は事件について極めて詳細に知ることが出来るのであるが、これをもとに次章から襲撃の詳細を記述することになる。その中に松平康英の日常の描写がある。同書の巻259に「長崎御使所用部屋日記 上條徳右衛門」から引用された文章がある。江戸在府長崎奉行曲渕甲斐守への、事件勃発の急報を始めとした奉行所関連の対応記録が多い。そのうち松平康英の切腹前後の記述の中に、彼の日常を記した文章がある。当然、上條徳右衛門(家老格の用人)の文章と見るのが妥当であろう。その内容を現代語訳にして紹介しよう。

『夏の日(事件の前の夏)ご公務にお疲れながら誰よりも長くお勤めになり休息も取らないほどお忙しいのに毎夜のように我々を呼ばれて資治通鑑を回読された。蚊に刺されて難儀しながら足立梅栄(江戸から随行した松平家の医師)、渡邊平蔵(同じく給人。用人より軽輩の家来)と私(上條)であるが、梅栄と平蔵は議論が長く喧しい(かまびすしい)のでご立腹され、会議は取りやめになったこともあった。いま思えば痛恨のことである』

ここでわかるのは勤務に精励した松平康英の日常、さらに疲れをものともせず家来とともに修養に励んだ日々である。資治通鑑は中国の歴史書である。江戸時代までは教養と言えば漢学であった。当時の公家社会と武家社会においては漢学の素養は必須であったが、5千人の唐人が住む町を統治する長崎奉行としては漢学の素養がさらに求められたであろうし本人も努めて学ぼうとしたのであろう。漢学の修養は維新後の西洋文化と教養の摂取が国家的課題となった後も続き、太平洋戦争に敗れたあと激流のように流れ込んだアメリカ文化の中でようやく漢学は忘れられたのである。驚くべき事は二人の給人が自分の意見を主張しあまりにもその議論がうるさいので松平康英が立腹し回読が中止になった夜もあったということである。ここからは二つのことが伺える。一つは自由闊達に議論ができる主従関係であったこと、もう一つは松平康英の気性がどちらかというと短気ではなかったかということである。気性の激しさはこの後の事件の際に我々は見ることができる。だが浅野内匠頭のように逆上するだけでなく、怒り心頭に発した後も自制する人物であったこともこののちわかってくる。率直に意見が交換し合える主従関係については、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という「葉隠」を生んだ佐賀鍋島藩の事件後の対応(多くの関係者が藩と藩主の責任を隠蔽して切腹した)ことと比べると、松平康英の家来との関係がより人間的ではなかったのかとも思える。次のエピソードがさらにそれを裏付ける。

『お奉行はお酒を少し嗜(たしな)まれたので時々三人を呼ばれて夕刻いろいろな四方山話をされたがお留守宅のお話はなかった。俳諧などもお付き合いされることがあり、忠左衛門(あとのエピソードで唐紅毛商品の取り扱い役として登場する。地役人か?)がよく恋歌を作った(紹介した?)が「それは古句よ古句よ」と笑われるのであった。手附(幕府から派遣されて奉行配下として勤務する与力)給人(家来)その他の諸士も幾度となく酒食をともにされたが、これはお奉行のご配慮のためであった』

ここにも主人ぶらず部下に気を配る松平康英の心構えと、大酒飲みでは無いが酒好きの横顔が見える。単身赴任のため家来その他と時間を過ごすのは多かったろうが、身分の差にこだわる謹厳実直なタイプではなかったようだ。江戸育ちの旗本のせいかもしれない。お留守宅の話はなかった、というのは興味をそそる。というのも事件勃発後、佐賀藩の怠慢で軍勢が揃わぬ中、奉行所の寡兵をもって松平康英がフェートン号を焼き討ちしようとした時、高橋忠左衛門(唐紅毛商品の取り扱い役。用人と思われる)が「お留守宅のご老母様のことをお考えなされて(焼き討ち出撃を)おやめください」と諫言したところ涙ながらに「わかっておる、心配するな」と答えて中止した事実がある。周知のように松平康英は前田家から松平家の養子になって家督を継いだ。事件に際しては松平家の母(義理)を慮(おもんぱか)って焼き討ちを中止した。しかしそれ以前の平穏な時に家来との語らいの場では留守宅の話はしなかった、というのだ。その事情について興味をそそられるのだが、今となっては確かめる術はない。

こういうエピソードもある。『あるとき通詞に命じて赤色の辰砂(しんしゃ)紙を自分(上條本人か?)用に取り寄せたことがあった。お奉行がそれを知り見てみたいと申されたのでお持ちすると、これはまた鮮やかな紅色であると感心されたのだが、その後お奉行は態度を一変して、今後奉行所で物品を入手する際は自分の許可を得た上にせよ、とこれまでにないほどのお怒りだった。これは誰かがお奉行が辰砂紙を自分用に届けさせたといわれのない噂を立てたせいのようである』

このエピソードから、松平康英は公私の別を律することに極めて峻厳であったことがわかる。長崎奉行所の配下は、放埓な長崎町民に賄賂で絡め取られる事件が多くあった。奉行自らが厳しい姿勢を見せることによって、奉行所全体の規律の弛緩がないように努めたのであろう。

『唐紅毛商品の取り扱い役である高橋忠左衛門が用向きのため通詞を(お奉行)に引き合わせたところ、「聯(詩句または絵をかき、また彫刻して、柱や壁などの左右に相対して掛けて飾りとする細長い板 コトバンクより)を用意せよ」と命じられたが、蓮子(窓や,戸などの開口部に棒状の木または竹を縦または横に並べたもの,およびその意匠をいい,縦横に組んだ格子とは区別される コトバンクより 長崎や古い町屋の窓に多く見られる)のことと思い「蓮子をお求めなので至急奉行所内で探すように」と平野善次右衛門と彭城(ほうじょう)昌十郎へ申し渡したところ、二人とも心あたりが無いので蓮子は無いと忠左衛門に断ったという。(上條)徳右衛門がそれを聞き、お奉行に確認したところ(蓮子ではなく)聯の間違いだったことが判明して、お奉行がことのほか赤面された』

業務の執行については『(江戸を)ご出発前に指示されておられたのか、船頭たち(奉行所役船の船頭か?)が何年も前から長崎代官(長崎奉行が統括する市内80町より外の郷村を支配差配する代官。長崎奉行の配下である)を相手取って(処理の)願いをしてきた(案件)があり、これは目安方(捜査調査担当)も承知していた件であるが、(船頭たちを)何度も呼び出して御用談所で尋ねられ、大体解決したので、そのことを次の奉行への引継ぎ項目へ入れられた』と紹介している。

また『書画をご覧になる際には(書画に指が触れることのないよう)篦(へら)を用いておられた。このように丁寧で誠実な人柄は他に見たことがない』とも記されている。

また『在職中に(家来や配下の役人に)よくご褒美を下されることがあった。(奉行所の公金ではなく)自分の袖のうちからこれはお手柄であったと冗談交じりに賜れるのであった』とも記されている。

これほど人柄や仕事ぶりについて詳細に残された奉行はいない。他の奉行についても記録はあったかも知れないが今に残っていない。フェートン号事件に関連するあらゆる文書を幕府が収集し残してくれたおかげで、事件の最も中心にあった人物の一人である松平康英の、人柄仕事ぶりを我々は幸いにも知ることができるのである。

彼は極めて誠実で几帳面で、熱心な勉強家であり、職務に忠励な奉行であった。短気ではあったが、家来や部下への心遣いを常に心がける人でもあった。酒を嗜み、人との会話を好み、家来の出過ぎた意見主張にも寛容な人であった。公私の別に厳しく、いささかの緩みも見せなかった。聯と蓮子を間違えて赤面したエピソードも、彼が権柄尽く(けんぺいづく)ではないことを示している。世の中には、部下から間違いを正されると逆上する上司はいくらでもいるものだ。これをもってしても正直な、実に素晴らしい人物だったことがわかる。

彼が長崎へ赴任してほぼ1年後、フェートン号が出現する。松平康英にとってそれまでの1年は上記でも見たように多忙を極めたのであろう。この1年で果たしてやり残した事はなかったか?フェートン号が出現した時、彼はそれを断腸の思いで知らされることになるのである。