4 アメリカとフランス革命

1789年4月30日、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任した。その3ヵ月後の7月14日、パリでバスティーユ監獄襲撃事件が起こり、フランス革命が始まった。

フランス革命が勃発して一番意を強くしたのは生まれたばかりのアメリカ合衆国だったはずだ。アメリカにとってフランス革命は、自分たちの独立革命の思想を受け継ぐ革命となるからだ。だが、アメリカがフランス革命を支持したかどうか。それを知るには複雑な背景を理解する必要がある。

独立戦争を描いた名画がある。戦争2年目の冬、ワシントン将軍に率いられた独立軍がデラウエア河をとがする風景を描いた絵である。この絵は1851年(75年後)にドイツ人の作家によって描かれたものであるが、この絵がアメリカで公開されると熱狂的な興奮をアメリカ人の間にに巻き起こした。この絵にはワシントン将軍の毅然としたリーダーシップに加え、当時の苦闘と、その苦闘を耐え忍んだ名もなきアメリカ独立戦争の勇士たちの真実が見事に描かれているからだ。

この画像をクリックで拡大して精査してほしい。真冬のデラウエア河はまるでアラスカかと錯覚しかねないほどの氷で覆われている。この当時の寒さがよく伝わってくる。寒風をものともせず屹立するワシントンを囲んで意気盛んな兵士たちがオールを漕いでいる。だがその兵士たちの群像には誰一人制服を着たものがいない。皆思い思いの服装である。これが大陸軍(大陸の軍隊。Continental Army 独立戦争のアメリカ軍)の実態であった。独立宣言をしたとき、アメリカには常備軍はなかった。13の州にも軍はいない。独立軍を構成したのは、一般市民である。ヴァージニアに最初の植民地が出来てから、1世紀半ちょっと。民衆のほとんどはまだ開拓民そのものであった。当然生活のための狩猟に銃は欠かせない。その銃をそれぞれが携えて、独立戦争に参加したのだ。
アメリカとイギリスの戦いは、今日よく言われる非対称の戦争だった。非対称の戦争とは、国家と(その正規軍)とゲリラ勢力(アルカイダやISISのような非正規武装勢力)との争いを言う。
当時のイギリスとフランスはスーパーパワーだった。 特にイギリスは19世紀の半ばになれば今のアメリカに匹敵する世界最強の軍事力をを持った国になっているが当時18世紀後半においてはその世界最強への道を登り始めた頃である。そのイギリス軍が相手にしたのは、「大陸軍」と称してはいるが実態はアメリカ民衆の志願兵をかき集めたものだった。
だから正規軍同士の平原での決戦のような戦闘は起こらない。
モリソンの「アメリカの歴史1」から引用すれば、
”(ある農夫は)戦場に赴くほどのこともないと考えていた。しかし、いざ銃声を耳にすると、馬に鞍をかけ、マスケット銃を持ってこさせ、「この農場がだれのもんになるんか、いまにわかるぞ!」という言葉をのこして馬を駆り、走り去っていった” という。( 485ページ)

一方、イギリス軍にとっては ”地方の住民たちすべてが一丸となって立ちむかってくるといった状況は、初めて経験すること”だった。ヨーロッパでは軍隊は戦場で敵と相まみえるまでは安全に行軍できた。ところがアメリカでは住民が銃を取って立ち向かってくるという初めての状況に ”イギリスの将軍たちは、沿岸地方を離れて内陸深く進撃するのを非常にいやがった”(同485ページ)という。アメリカ海軍のひな型も蹴散らされたから、制海権を握っていたのはイギリス海軍である。沿岸地域に限るとはいえ、イギリス軍は常時3万の正規軍を擁し、ドイツの傭兵団まで送り込んでいた。
ではなぜ、アメリカは勝利したのか?それはイギリスのライバルであるフランスがアメリカ側についたからだ。前章でも触れたが、雷の実験で有名なベンジャミン・フランクリンが特使としてパリに赴き、そのキャラクターで社交界の花形となったように、アメリカは周到にフランスを自陣に引き入れた。

そういう経緯を知るとアメリカが一も二もなくフランス革命を支持したと考えるのが当然だろう。だが実際にはアメリカはフランス革命に対して非常に複雑な行動をとらざるを得なかった。それをこれから解き明かしていこうと思う 。
アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンはフランスの助けがなければイギリスにアメリカが勝てなかったと一番知っている人である。
冒頭のデラウエア河を渡河した時のワシントン将軍は、無い無い尽くしであった。銃も大砲も弾薬も食糧もそして兵士の給与にも事欠いていた。アメリカの世論の中にはこの窮状では勝ち目がないと早合点しイギリスにアパラチア山脈の西方を割譲しようではないかという論さえ出ていたのである。そのアメリカへルイ16世はロシャンボー将軍の率いる6,700名の軍勢を送り出していた。しかし 制海権を握るイギリスは、その遠征軍をアメリカ東岸のどこへでも上陸させることができる一方、折角のロシャンポー軍6,700名も1780年以来ニューポート(ロードアイランド州、ニューヨークの東北東255キロ)に釘付けになっていた。だが1781年3月にルイ16世がついにフランス海軍主力をアメリカへ出航させたことで事態は一変する。勇猛な海軍少将ド・グラース伯爵率いる20隻の戦列艦がアメリカ東岸へ援軍に駆け付けたのである。これによってワシントンはロシャンボー軍とともにヨークタウン(バージニア州、ワシントンDCの南190キロ)にいる英軍めがけて進軍、チェサピーク湾に侵入したフランス艦隊とともにコーンウォリス将軍率いる8,000人の英軍を包囲し降伏させるに至ったのである。

フランスの勝利への貢献は目覚ましかったが、一方ですでに抜き差しならないほどの財政難に陥っていたフランス政府にさらに10億リーブルという負担を押し付けることになった。ロシャンポー将軍の遠征軍に加え、大艦隊の派遣が莫大な戦費を必要としたのである。結局この財政の逼迫とそれによる庶民の困窮がフランス革命の引き金になった。

初代大統領ワシントンにとっては、フランスはよき友でありながらも、まず誕生したばかりのアメリカ合衆国にとっての最良の舵を取る必要があった。フランス革命に彼らはどう対処したのか?

それを考察するにあたり、現代の視点からは忘れがちなのは、当時の情報伝播の速度である。フランスとアメリカの間には大西洋がある。首都パリと大西洋航路の出発港ブレスト間でさえ500㎞もあるうえに広大な大洋が横たわっているのだ。フランスから最新のニュースがアメリカへ届くまでに優に3か月を有した。

それに加えてフランス革命はめまぐるしく変転する。最初は立憲王政としてルイ16世を存続させる方向だった(1791年)のが、翌年には王制を廃止して共和制(第一共和政)となり、さらに翌1793年1月にはルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで処刑されるに至る。

1789年パリ民衆によるバスチーユ監獄襲撃以来、アメリカの民衆は共感を持ってフランス革命を見守っていたし、「世界のすべての国王に対する戦い」をフランスが宣言したと聞くとアメリカは熱狂した。アメリカはイギリス国王との戦いに勝って独立を果たしたからである。フランスの革命政府はアメリカの世論を盛り上げるため市民ジュノーと言う人物を全権大使として派遣したが、彼がチャールストンに上陸してフフィラデルフィアに向かう道中は熱狂的な歓迎の渦だった。

そういう民衆の中にあって、当時の指導者層はどうだったのだろうか?

既に1783年9月のパリ休戦条約会議から10年の歳月が流れている。独立戦争の司令官ジョージ・ワシントンは初代大統領、アメリカ憲法の起草者アレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官、トマス・ジェファーソンは初代国務長官である。この3人は「アメリカ建国の父」と並び称される人たちである。だが、この3人の間にはフランス革命の評価について深い亀裂があった。

ジョージ・ワシントンは当時円熟の61歳、独立戦争の英雄であり、高潔な人格で誰からも国父として尊敬されていた。ジェファーソンは50歳、バージニア植民地の富裕層の出身であり、独立宣言の起草者でもあった。彼はその後、フランス大使を務めている。

一方で、ハミルトンは若干38歳、。米国憲法をなんと32歳の若さで任されたほどで天才と称された。西インド諸島に貧しく生まれ、11歳から働くうちに機転や文才やを見出され、後援者たちからキングスカレッジ(現コロンビア大学)に送り出される幸運に恵まれた人物だ。ほどなく彼は天分を発揮し始め、英国との紛糾に沸く政治の世界に身を投じ、アメリカ革命の中心人物の一人となった。

この3人はフランス革命のへ態度が全く対立することとなった。まずジェファーソンであるが、フランス大使を務めたことで分かるように、彼は熱狂的なフランスの自由民権思想の支持者でありフランス革命を支持すべきだと主張した。

一方でハミルトンはアメリカ革命の中心人物の一人でありながらイギリスを支持した。この背景には当時のアメリカの指導者層にとっては、イギリスの思想家としての重鎮でありアメリカの独立を支持してくれたエドマンド・バーク(保守思想家として英米に大きな影響力を持っていた)がフランス革命の進展に対して批判的な『考察』を発表したことが衝撃だったことがあるようだ。ワシントン、ジョン・アダムズ、ハミルトン等に「革命へのロマン」から覚醒させることになった。(モリソン「アメリカの歴史2」p239)

『ジョン・アダムズおよびエドマンド・バークは、かつてジョン・ディキンソンが岨べた「経験こそがわれわれの唯一の導き手でなければならない。理性に頼ると、道を踏み誤らないともかぎらない」
いう言葉に含まれている教えに信を置いていた。そして事実、理性は長いあいだ人間-特に共産主義者-を誤った方向へと導き続けてきたのである。』(モリソン「アメリカの歴史2」250ページ) 「理性」とは、人権とか平等などの社会正義を標榜するものとしてとらえられ、「経験」とは歴史の中から生まれた人間の実際的な知恵を体現している、と言えよう。連邦党は英国側につく。その地盤はニューイングランド地方、すなわち英国に対してアメリカ独立戦争の最初ののろしが上がった地域である。一方でまたジェファーソン等の共和党は、その主要メンバーが南部のプランテーションで黒人奴隷を所有している身分でありながら、「万民は平等である」との思想を実現しようとするフランス革命を支持するという、奇妙なねじれが起こったのである。

結局、ワシントンは中立宣言をすることとなる。変転極まりない革命政府は、王制を維持した立憲制から共和制へと思想と指導者をめまぐるしく変え、その上アメリカの独立に貢献し革命に当初好意的であったルイ16世とマリーアントワネット妃までもギロチン台に送ってしまった。これに対し、大英帝国は生まれたばかりのアメリカ合衆国にとっては貿易面でも軍事面でもとても対抗できない強固な存在だった。国力の差は計り知れなかった。パックスブリタニカの時代である。今のアメリカのような強大な国力と武力を備えた存在だったのが当時のイギリスである。

だが中立宣言をしたことによってアメリカの商船はイギリスから阻害されることになる。このことが当時のアメリカ商船が太平洋に向かうきっかけともなった。このことは後に取り上げるウイリアム・スチュアートという快男児を産むことにもなる。

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