28 日露(魯)会談

さて、既に5章に渡ってレザノフ来航のことを取り上げて来た。 これは当初の予定にはなかったことでレザノフについて言及するつもりは元々なかったのである。だが大島幹雄氏訳の「レザノフ日本滞在日記」の衝撃があまりにも大きかったために大きな紙面を割くことになってしまった。そろそろフェートン号の物語に戻らなければならないが、その前にレザノフの長崎での日々の最終局面を語らなければならない。我々は既に幕府がレザノフの通商要求を拒否したこと、通詞や江戸から下向した役人、警護兵たちがその処置を残念がったこと、ドゥーフが宴会を開いたこと、レザノフは首都サンクトペテルブルグに戻る途中シベリアに客死したことを知っている。だが、レザノフを半年も幽閉した挙句に要求を拒否した検使遠山金四郎景晋と二人の奉行との会見の模様を記して、レザノフの物語に別れを言うことにしたい。タイトルが日露(魯)会談となっているには当時はロシアを露国ではなく魯国と表現していたからである。

江戸から遠山金四郎景晋の一行が到着したのは、3月30日(西暦)である。だが31日、4月1日、2日の3日間、何の連絡もなかった。通詞も姿を見せない。外国の賓客には礼を欠く態度である。だがレザノフは耐えるしかなかった。例の通り警護兵たちと語らう時間が続き、レザノフは自分の肖像版画が長崎の町で出回っていると知らされる。長崎には川原慶賀、石崎融思など江戸にも鳴り響いた作家がいて、長崎絵として評価が高いがその中の一人がどこかでレザノフを観察したのだろう。当時の絵師は今の報道カメラマンのように記録者としていろんな場面に立ち会うことを許可されたのかも知れない。この肖像画の流布もまた長崎でレザノフの人気が高かった一因だろう。24章で触れた80歳を超えた老婆がひ孫を連れてレザノフに会いに来たのもこの肖像画を見たせいだろう。ササキ・イツジという警護兵との語らいでは、一般の武士たちが通詞たちに反感を持っていることに驚く記述もある。通詞たちの特権に対しての妬みだと言う。また4月2日は旧暦の3月3日で雛祭りであるが「モモノシェク」とレザノフは呼んでいる。レザノフの訛りが分かる一端でもある。警護兵たちは酒を飲んでほろ酔いだとも記している。4月3日になってようやく中堅の通詞が来て、2日後に会見が決まったと教え、彼が奉行所に向かう沿道や町中の門や窓が閉じられると教えてくれる。会見は2度だけ、とのことだ。大通詞3人が揃って正式にレザノフに検使の江戸からの到着を伝えに来たのは、4月4日のことである。翌5日会見に決まったというのだ。レザノフが「ヨーロッパでは6ヶ月も待たされた人物には着いたその日に報告するのが礼儀だ」と責めると、大通詞たちは「到着を報告した後で会見を待たせることの方が日本では非礼にあたる」と返す。このヨーロッパの常識と日本の習慣の争いが実際の会見までことごとく表面化する。レザノフはロシア皇帝の全権大使、検使は将軍を体現する使者である。つまりは、会見に際してのプロトコルの詳細がロシア皇帝と将軍の権威を巡っての一大事なのである。大通詞とレザノフとの間で長いやり取りが続くが、剣を外すこと、レザノフの随員は5人まで、梅香崎仮館から肥前の殿様の御座船を使って出島のそばを通り大波止(波止場)に上陸する、そして検使(遠山金四郎景晋)と二人の奉行には対等に対峙することとなった。会談で使用する言語について面白いやり取りが起きた。通詞たちはレザノフにオランダ語で話せ、というのだ。それを自分たちが通訳する、と。レザノフは呆れて「私はロシアの大使だ、ロシア語で話すのが当然であり、それを私の随員がオランダ語に訳す」と言うと「それは絶対に許されません」と通詞。この時である、レザノフが「ならば私は日本語で話す」と言ったのは。すると通詞たちは猛反発し「我々の掟に反することであり、そんなことをすれば私たちが必要なくなります」と通詞たちの本音が出てくるのである。海外の言葉を絶対に習得しようとしない幕府の官僚と、世界で唯一通商を許されたオランダ人の間で、通訳という特権を独占する集団、それが通詞なのである。通詞たちへの妬みや反感をあからさまにした警護兵の心情もそれを分かってのことだったろう。こうしてようやく翌日の正式会見となる。

4月5日、朝7時、レザノフ一行は梅香崎仮館から出発した。肥前公の御座船が用意され、深紅の絹で縁取りされたその絢爛さにレザノフは驚いている。船は出島のそばを通ったがそれを観察していたドゥーフとレザノフは互いに挨拶を交わしている出島とレザノフの乗船とは、100mもない距離であったろう。ドゥーフによるとレザノフは素晴らしい正装であったそうだ。大波止に着くと、駕籠(ノリモン。乗り物の長崎訛り)が用意されていたが、実はこれは奉行所がドゥーフから拝借したものだった。この時の絵図を見ると相当に豪勢な行列だったことがわかる。レザノフ一行は高級将校ら随員が5人、ロシア皇帝旗の旗手、靴持ち、儀仗兵6名である。これを大勢の役人、警護兵が一行の前後を2列で囲んだ。通りにはいたるところに哨所があり、その哨所ごとに警護兵の集団がいた。大波止からは丘の上の西役所(今の県庁所在地)への緩やかな坂を上り、そこから北東に転じて大通りを奉行所に向かう。ほぼ1.2㎞の道のりである。15分程度の行程であったろう。奉行所の所在地は長崎を見下ろす立山の裾にあり、長崎で最も有名な神社諏訪神社の隣にある。長崎奉行所は長崎歴史文化博物館の一部(Annex)としてほぼ当時のまま再現されており、城郭のような威容を誇っている。レザノフの記述通りに階段を上り巨大な門をくぐると広場がある。その両側に兵士が座っていた。大きな玄関で靴を脱ぎ中に入ると大きな部屋には40名ほどの高官たちが座っていた。広く長い廊下をさらに渡ってゆくと控えの間で帯剣(サーベル)を渡し、ようやく会見場に通された。二人の奉行と検使(レザノフは“大名”と呼んでいる。恐らく通詞たちが検使の遠山金四郎景晋のことを大名と呼んでいたのだろう)が座っており、この広間にも大勢の役人が控えていた。長崎代官、徒目付、勘定方、普請役もいたというから大田南畝も列席していたろう。レザノフはのこれらの人々を見て、顔見知りが多いと書いているが6ヶ月も同じ長崎にいながら奉行二人がレザノフと対面するのはこの時が初めてである。ここでレザノフは3人が長刀を持っていることに気が付き、早速通詞に「約束が違う」と文句を言うのだが、これは太刀持ちのことと思われる。奉行二人、検使との距離は畳2枚である。レザノフが通詞に帯剣のことで文句を言ったのは日本語で言ったのではないか、と推測される。と言うのもレザノフが話すのを聞いて奉行の肥田豊後守がまるでなだめるかのように口を開き「日本の習慣により長崎で随分と退屈させてしまったことを深く遺憾に思っている」と切り出したからである。これに対しレザノフは「このような退屈は初めての経験です」と辛らつな本音を言うが一方でこれまでたくさん厚意を授かったと謝辞を述べた。まずは順調な滑り出しと言えよう。もう一人の奉行成瀬因幡守が江戸から来た将軍の名代(ここでも原文では奉行は検使のことを大名と表現している)にもう一度あなたの来日の目的を話していただけないか」と尋ねる。わかり切ったことをあらためて言わせるのは煩わしく感じるが、当時のプロトコルだったのだろう。レザノフは「喜んで」と言って改めて訪日の目的を述べた。これに対し成瀬は「将軍はロシア皇帝が通商の意思を持っていることに驚いている。ラクスマンに通商の許可を認めないと念を押して伝えたからである」と述べる。この成瀬の発言を記述したレザノフの文章はわかりにくい。原文は次のようである=「将軍は、ロシア皇帝が通商のことに触れ、それに対して感謝しいることに驚いている。通商の許可を認めてはいないが、将軍に書簡を出すことだけは許した。ラクスマンにも、このことは念を押して申し伝えたはずだし、誰も決して日本と書簡のやりとりはできないことを、直接言い渡して、そのことは彼も承認したはずであった。ただこの前提を認めたうえで、将軍(クボウ)に書簡をだすことだけは許したのだ。これにより最初交わした約束が反故にされたことになる。しかし将軍はとれについては寛大に処してきた」。この意味が現代人の私には良くわからない。恐らくレザノフにもよくわからず、そのために上記のような記述になったのではないか、と思われる。当時の日本人の、持って回った言い方、のせいかとも思われる。前の章で触れた、ラクスマンに渡した文書は実は許可証だったという見方が当時あったことを考えれば、理屈をこねまわしてそれを否定する言い方だったのかもしれない。だが要は使節も受け入れないし、貿易も望まない、と言う意図はレザノフに伝わった。レザノフは「『これがなにを意味するのか、私に理解できません。このような失礼な対応に驚いている。これは特別な名誉をもっ者を侮辱することにはならないだろうか。ヨーロッパの皇帝や女王たちは、ロシア国と書簡のやりとりすることを、身に余る光栄と見なしている。またロシア皇帝の名誉に関することを、将軍がラクスマンに果して命令できるのでしょうか。皇帝も将軍も同等であり、どちらが偉いかはいまここで決められることではないはずです』私はこうしたことをかなり激烈な調子で言った」と書いている。ここまで見てきたように、私の判断ではレザノフは温厚であり礼義を重んじ、かつユーモア感覚豊かな人間でもある。そのレザノフが“激烈な調子で言った”のだから、これは今の言葉で言えば「完全に切れた」と言ってよい。幕府側にそういう意図は無かったろうが、外交上の儀礼としてレザノフはロシア皇帝が侮辱されたと取ったのである。これは当時の幕府の外交感覚が清王朝のそれと五十歩百歩であった証左でもある。奉行の肥田がこれを見て「お疲れでしょうから、今日はここまでにしてまた明日会見いたしましょう」ととりなすと、レザノフは「結構」と言って退出した。はらわたは煮えくり返っていたのである。夕方、本木庄左衛門と馬場為八郎という、レザノフと極めて懇意の二人の通詞が「明日もう一度謁見においでいただきたい」という奉行と検使のメッセージを伝えると、「もう行かない」と断るのである。それに加えて「彼らは自分たちの言葉に対してあやふやであるし、会見の作法からいってもなっていない」と怒りを露にする。これに対し二人の通詞は「すべて古くか.らの習慣に依存しているから」といなし、レザノフの怒りをやわらげ、「明日の7時に出発するのでよろしく」との言葉を残して退出する。この日のドゥーフの商館日記にはこの日のことを「たっぷり一時間そこ(奉行所)に滞留した後に、一行は同様の方法でふたたび引き返した」とある。6ヶ月待たせた挙句の初日の対談はわずか1時間にも満たないものだったことがわかるのである。この夜のことは記述が何もない。だが私は思うのだ、梅香崎仮館にはロシア人たちの憤怒が渦巻いただろう、と。これまでレザノフの指示に従ってじっと耐えていた側近たちも、6か月もほったらかしにした挙句の鼻をくくったような回答に怒らないはずがない。ヨーロッパ一の大国強国を自負するロシア帝国のエリートたちなのだから、その怒りは凄まじかったろう。何の記述も無いところに、私はかえってレザノフを取り巻く不穏な空気を感じてしまうのだ。

明けて4月6日、夜のうちから雨風が強くなり、朝には嵐となり、滝のような雨が降った、とレザノフは日記に書いている。この天候を検使遠山金四郎景晋と二人の奉行はレザノフの怒り、と思ったのではなかろうか。彼等の気持ちがレザノフに好意的であるのは疑いようのないところだからだ。風雨が少し納まった9時に奉行所の高官が迎えに来た。天候のせいで道もぬかるんでいるだろうから随員たちの駕籠を要求する、さもなければ一歩も動かない、とのレザノフの強硬な要求に役人たちが折れて駕籠が用意されることになったが、それを待つ間、絵師がレザノフをスケッチしていた、とある。礼服の刺繡に手間取るのを見たレザノフは絵師をそばに読んで細かくスケッチさせると、絵師はロシア人は本当に親切だ、と感謝するくだりがある。これはやはり当時の絵師が今の報道カメラマンの役割をはたしていて、このような賓客の傍らで絵をかくことを許可されていたことを物語るのである。午後1時なって準備が整い奉行所に赴いた。結果は予想通りのもので、⑴幕府の書付(公式文書)と長崎奉行所の書付を二人の奉行がそれぞれ読み上げたのである。ロシア皇帝の国書、献上品は一切受け取らない。⑵オランダとしか通商しないという決まりであるから、その祖法に従い通商要求は受け入れない。⑶帰りの航海のために必要な食料を提供するが二度と日本に来ないこと、帰国の際にどの港へ立ち寄ることも許されない、これだけ長崎に滞在できたのはロシア人への慈悲である、というものだった。レザノフが前の日に予期した回答そのものだった。これに対しレザノフは、日本が他国を受け入れないことは世界中が承知しているが、偉大なロシア皇帝が友情を約束するための献上品を受け取るべきである、と主張して真っ向から対立する。皇帝からの豪華な献上品の数々を「断られました」とおめおめと持って帰れるはずも無いのだ。議論が膠着すると、将軍が米塩真綿を薪水料(航海費)として渡すことを申し渡される。今度はレザノフが断る番になる。「「私たちに六カ月も苦しみを与え、皇帝の好意に対して、不遜な態度をとりつづけるような人たちから食べ物を恵んでもらうなど御免被る」(313p)というのだ。通詞たちは動揺した。多吉郎(大通詞)はレザノフの副官であるフリードリッヒに「私たちの条件を受け入れるよう使節にお願いしてください。使節は知らないのです。日本では、たったひとつの火花がもとで、おそろしい、あとで消すことのできない炎になることがある」と懇願する。これは会見の一部始終の中で最も緊迫した場面である。奉行も検使も武家である。彼等を追い詰めると最後の手段は武力行使になる、という意味だ。200年前とは言え、ポルトガルの国使一行60数人が皆殺しにされた例もあるのだ。レザノフは気を取り直して言い方を変える。「善意でしたすべてのこ乞が、全く反対に受け取られるほどやり切れないことはないだろう、だから奉行らは、私たちに友好の証をしめすために、少なくともほんとうに取るに足らないような品物を受け取ることだけは拒絶しないでいただきたい」と語る。奉行らは外国人から贈り物を受け取れるのは通詞だけであり、許可を取るには江戸に問い合わせる必要があり、そうなればまた2か月の時間がかかると言って執拗に同意を求め、結局その場の返事をレザノフは留保する。レザノフはロシア人が漂流して日本に辿り着いた時の保護と、今後日本人の漂流民をどこに届ければいいのか、の回答を要求し、2日目の会見は終わった。午後5時半であった。この日レザノフ一行への扱いはとても丁重で、日本側は実はロシアとの戦争が起こるのでは、との危惧がつのっていたのである。それだけ幕府の回答が理不尽だと思う人が多かったのだ。レザノフ一行が宿舎に戻ると警護兵たちは結果を聞いて泣き出した。「「幕府はいったいぜんたいなんということをしたのでしょう。私たちをロシアに連れていって下さい。ロシアだったらずっと幸せに暮らせることでしょう」(317p)。これが歴史書には残らない当時の日本人の感覚なのである。長崎の町では戦争が起こるとの噂が流れ、港では番船の動きが活発になる。レザノフは火薬をすべて没収されていることから戦闘しようがないことを思い知り、密かに一行が殺害されることにも考えが及び、話し方にも気を使い用心深くせねば、と思い始めて、この日は終わるのである。

4月7日。3人の大通詞たちはこのような結果になることは予想もしていなかった、検使が来て初めて幕府の意向を知った、それは二人の奉行も同じだ、とレザノフに言う。レザノフの長崎の町でお土産を購入したい、寺を見学したい、オランダ人とも別れの挨拶をしたい、との願いではすべて幕府から拒否されたことを知らされる。またうかつに異国人からモノを受け取ると死罪になるという法の存在も知らされる。

4月8日。最後の会見が設定され、レザノフ等の心中を慮って(おもんばかって)か、雨が降っているわけでもないのに随員たちにも駕籠が用意された。奉行所では役人全員が悲しげに表情であった。ロシア皇帝の献上品が認められなかったことの残念さと今後寄港するロシア船の保護や帰国するレザノフ一行の安全保障について話が及び、再びレザノフは自分が日本語で話すと提案するが、通詞たちからはそれは自分たちの仕事だと断られる。そして最後に奉行肥田豊後守から「思いもかけない決定が下され、そしてとこで六カ月も無為に過ごされながら、お互い望んでいたような結果を得られなかったことに対して、私およびほかの二名も深く遺憾に思っております。ロシア人の安全をはかるため、どんな書面でも出したいのはやまやまなのですが、厳しい法律のためそれはできません」。しかしこの先、日本沿岸での安全が図られるようお触れが出ます、というのだ。レザノフは「彼らに日本語で謝辞を述べた。友情の継続を確信しながら、私の側で働いてくれた高官たちや、他の役人たちに、彼らから受けた数多くの親切に対して、私から贈り物することを許してもらいたい。さらに加えてもし彼らのために、何か記念品をここに置いていくことが出来なければ、これは私にとって侮辱以外のなにものでもない」と主張するが、それもねんごろに断られる。奉行肥田豊後守が「「ロシア人の善良な心はよくわかります。私たちは感謝の意を込めてこの気持ちを受け取りたく思います。幕府から許可なしで、このような贈り物を頂戴するわげにはいかないのです。しかしながら一般の役人たちに贈り物することに関しては、許可しましょう。法律で受け取ることが認められている通訳たちになにかささいな品物を置いていって下さい。しかしながらこれはあなたの優しいお心に応えるためだけに特別に許されたことです。わが国では、通訳だけが、唯一外国人から贈り物を受け取れる資格を持った役人なのです」と事情を話すのである。こうしてお世話になった人々へのお礼も受け取らない結末となる。「犯科帳」(森永種夫)には、庶民の犯す犯罪に対して奉行の判決には人情溢れる例が多いが、異国が関わる案件になると恐ろしく硬直した法治主義前例主義を幕府が一歩も譲らないことに驚かざるを得ない。一方で、ロシア人の世話になった人への贈り物へのこだわりもこれまたとても強く、帝政ロシアの人々の人付き合いは日本人に非常に近いとも感じるのである。これは恐らく共産国家になって失われた信条ではないか、と思われる。日本に用のなくなった(というより、皇帝から授かった任務を拒否された)レザノフは帰国の準備を急ぎ始める。そのレザノフに警護兵たちが「、民衆の聞では不満が広がり、長崎の住民、特に商人たちや職人たちはとても不満を感じているという。そして京(みやこ)からたくさんの商人たちが貿易しようという思惑を抱いてここに集まっているとのことだ。また奉行たちゃ大名も今回の幕府の決定には、まったく満足していなかった」(326p)という話をするのだ。これまた歴史書には全く残っていない話である。

これがロシア全権大使レザノフの奉行二人と検使遠山金四郎景晋との会見のすべてである。この後は24章で見た通り、怒りの感情に任せた本木庄左衛門や馬場為八郎から複雑なバックストーリーを聞くことになる。レザノフについての記述はこれでお終いになるが、最後にドゥーフの商館日記の4月9日の記述を紹介しよう。この日、漂流民たちが日本側に渡されたが、「すぐに牢に入れられた」(「オランダ商館日記 四 172p」とある。この日を予期して喉に剃刀を突っ込んで自殺を図った多十郎はどういう思いだったろうか。