3 フェートン号とフランス革命

それでは、このフェートン号の生い立ちを追ってみよう。戦前に日誌解読に挑まれた小野三平氏はその稿の中で『吾等日本人には有名なフエイトン号だが、彼には至極平凡な一木造艦たるに過ぎないから。』と書いているが、果たしてそうだろうか。

フェートン号は1780年代に建造された前述のミネルヴァMinerva級フリゲート艦4隻のうちの3番艦で、リバプールのジョン・スモールショーJohn Smallshawに1780年3月3日に発注、2年後の1782年6月12日に進水している。アメリカ独立戦争中(1775年―1783年)に沿岸警備や商船護衛の必要から英海軍はフリゲート艦の建造に着手、フランス海軍との対抗上、Minerva級はフリゲート艦としては初めて18ポンド砲28門を装備、さらに9ポンド砲8門、18ポンドカロネード砲6門と武装を強化した大型フリゲート艦である。

ところがフェートン号は進水後ほどなくして艦籍を抹消(除籍 paid off)される。His Majesty Ship( 国王陛下の艦 )ではなくなった、ということであろう。折角進水した新型艦を除籍するとはどういうことだろう。実は新大陸で展開されているアメリカ独立戦争の行方がその背景にある。

1775年ボストン郊外のレキシントンで 独立戦争が勃発した時、イギリスは鎧袖一触で勝てると踏んでいた。相手はジョージ・ワシントンが編成した民兵である。訓練で鍛えられた正規軍ではなく、普通の市民たちが志願して出来た有り合わせの兵力である。事実、ワシントンは苦戦し、開戦後の最初の冬は山中で飢えと戦わねばならなかったのだ。今のワシントンDCは英軍に焼き打ちされる瀬戸際まで追い詰められたほどだ。だがフランスがアメリカ側に立って参戦した(同盟締結にフランスを説得する功があったのは雷の実験で知られているベンジャミン・フランクリン)こともあり、次第に形勢は逆転してゆく。そしてフェートン号進水の前年1791年にヨークタウンで英軍7千人が降伏するという大敗北を喫する。以降独立をあくまでも認めたくない英国王ジョージ3世は和平派が優勢になった議会と世論の圧力に屈し、この後は組織的戦闘が行われなくなる。戦争はアメリカの独立獲得へ向けて終焉を迎え始めたのである。それは、アメリカ大陸を海上封鎖する目的で出来立てのアメリカ海軍やその盟友のフランス海軍との対抗上進水したフェートン号の必要性が失われたことを意味する。さらにイギリスは莫大な戦費の負担にも喘いでいた。そこで新造艦でありながらフェートン号は除籍されたのであろう。

全くの余談になるが、独立戦争の戦場名を並べてみよう。レキシントン、バンカーヒル、サラトガ、ヨークタウン。いずれも太平洋戦争で日本海軍が決死の戦闘を挑んだアメリカ海軍の正規空母名である。レキシントンはサンゴ海海戦で、ヨークタウンはミッドウェー海戦で沈んだ。バンカーヒルとサラトガは特攻機に突っ込まれ、大破した。日本海軍が死力を奮って攻撃した米空母は、独立戦争を象徴していたことになる。日米の海上での対決は、独立戦争に顕現されるアメリカ的精神と、緒戦こそ優勢に展開したものの最終的には特攻という究極の自己犠牲まで行き着かざるをえなかった日本的精神、の対決だったということにもなる。

さて、乗艦が除籍されると乗組員はどうなるか。フリゲート艦に乗り組んでいる数名の士官はhalf pay 半分の給与で陸上勤務となる。別に仕事があるわけではない。次の乗艦が見つかるまで故郷で無為に暮らすか、乗艦の伝手を求めて海軍本部や提督などの実力者に働きかけるしかない。一方で水兵たちは解雇される。この頃、水兵は海軍本部Admiraltyではなく、艦長に雇用されている。その艦長でさえ失職同然なのだから、誰も面倒を見てくれないことになる。

フェートン号は進水したが、アメリカ独立戦争の帰趨が決したことで除籍になってしまったのは1782年3月。この新造艦はこのあと10年の長きに渡って眠り続けることになる。その間の記録は今のところ残っていない。

筆者の推測では、フェートン号は乾ドックで保管されていたのではないか。海に浮かべたままの係留保管を10年も続けると船体はすっかり腐ってしまうからだ。フナクイムシと一般に呼ばれる二枚貝が船底に付着し木材を食料にしてしまうのである。しかも軍艦に使用されることの多い樫材が大好物というから木造艦の大敵といえる。その対策としてこのころには英海軍は銅板を船体に貼るという方法を編み出し、実施していた。フェートン号にも銅板が張られていた筈である。

Fletcher’s yard, Limehouse

乾ドックシステムは早くから開発されていたようで、3層甲板の大型艦は乾ドックで建造されることが多かった。排水したドックの中で建造し、完成したら注水して水に浮かべるのだから進水式というより浮水式といったほうが実態に近い。このあと詳述するがフェートン号は再就役の直後から獅子奮迅の活躍を開始する。これは10年間の乾ドック保管による艦体の乾燥が大いに功を奏したのではないかと思えるのだ。杉浦名誉教授によると戦時には木材を十分に乾燥させることのないまま建造に使うことが多く、そのような艦は浸水や腐食が激しく艦の寿命も短かったという。フェートン号のこの後の長い活躍を見ると、乾ドック保管という見立ては正しいように思える。

だが世界情勢はまたまた新しい局面を迎える。独立戦争中の1780年、若き国王ルイ16世(当時26歳)はアメリカからの使者ラ・ファイエット(フランス人ながらアメリカ大陸軍の少将)の要請に応じて5千人のフランス軍をアメリカへ送り、独立戦争の推移に大きな影響を与えた。そのフランスが激震に見舞われ始めたのだ。

17世紀以降のヨーロッパはEnlightenmentという思潮に席巻される。いわゆる「啓蒙思想」である。自然科学と理性を尊び、進歩主義を特長とする。ジャン・ジャック・ルソーの『人民主権』説は啓蒙思想から生まれて、18世紀のフランスの運命に大きな影響を与えることになる。ヨーロッパで生まれた啓蒙思想を体現したのが新大陸アメリカの独立宣言だった。「人間はみな平等に作られ、創造主によってだれにも譲り渡すことのできない権利を与えられ,そこには生命,自由,幸福の追求が含まれる。そしてこれらの権利を守るために組織された政府がその目的に背く場合には,人民は新しい政府を作る権利,革命権をもつ」ことを明らかにしている。(註 講談社『クロニック世界全史』)

アメリカ人は、イギリスからの独立を「アメリカンレボリューション(アメリカ革命)」と呼ぶ。イギリスの植民地支配に対して、人民が自らの政府を樹立させる権利がある、という革命思想の実現という意味合いが非常に強い。この独立戦争でアメリカ側についてイギリスに参戦したのは、フランス、スペイン、オランダである。この三国は果たして独立戦争の意味を正確にとらえていたのか、という疑問がわく。単に国利国益でアメリカ側についてイギリスの権益を弱めようとしただけではないか。フランスの場合、サラトガでアメリカ軍がイギリス軍に大勝し、5,000名の英陸軍を率いたバーゴイン将軍が降伏したこと(ベンジャミン・フランクリンの活躍による米仏同盟締結はその4カ月後である)でアメリカ大陸でのイギリスの優位を覆せると計算したことや、15年前のフレンチインディアン戦争で失ったルイジアナ以東の植民地(イギリスの東部沿岸植民地をはるかにしのぐ広大な領地)を回復できると踏んだようだ。ところで読者の皆さん、降伏したことで不名誉な余生を送ることになるバーゴイン将軍はこの物語にも登場するから覚えておいてほしい。

しかし、フランスにとってはアメリカ側についたことで高い代償を払うことになる。フランス革命の勃発である。アメリカ独立戦争に参戦したための膨大な戦費などで破綻しかけていた財政状況がさらに悪化した中で、貴族・聖職者など特権身分への課税を骨子とする財政改革案が提出され混乱したこと、凶作で農民の暴動が各地で起こるなど経済要因は当然あるが、大きな背景は人権思想である。『人民が自分の政府を樹立する』とするフランス革命思想はアメリカ革命のレベルを大きく乗り越え、人民による政府の樹立だけではなく、1793年1月のルイ16世の処刑に行き着いた。ルイ16世は、危機に瀕する国家財政を救うべくいろいろな手を打ち(もっとも彼が承認した米仏同盟によるアメリカ独立戦争への参戦はさらに莫大な負債を生んだ)、また国民の不満をなだめるために拷問の廃止、刑務所改革、農奴廃止令などの手を打った。人民主権説には理解を示していたともいわれる。本人は開明派のつもりであったろう。フランス革命のうねりにアメリカンレボリューション(アメリカ革命=独立)が遠景として大きな運動エネルギーを与えたことを考えれば、38歳の国王は米仏同盟締結後15年で断頭台(ギロチン)に立った時にそのことに思い至っていたのだろうか。アメリカの独立は政治的には植民地の独立であるが、平等、自由、国民による政府の樹立という思想を現実社会で実現したことのインパクトは極めて大きかったと言わねばならない。

ルイ16世の処刑後、フランス革命は「すべての国王に死を」とその思想を全ヨーロッパに広める運動体と化した。革命は常に永遠の運動体として自己を規定する。ロシアのボルシェビキ革命は世界革命への第一段階であった。フランス革命の場合はナポレオンの帝政によって革命の国際化は終焉したが、その思想はあらゆる形で影響を諸方面に及ぼすことになる。後のRoyal Navy英海軍における水兵たちの反乱もその一つである。

一方で、ヨーロッパの諸国はフランス革命に重大な危機感を持つことになる。イギリス、スペイン、オランダ、プロイセン、オーストリア。フランスを取り巻く諸国はすべて君主国家であり、貴族層が統治する国々である。フランスの革命によって生まれた政府を到底容認できるものではなかった。

1791年8月、オーストリア皇帝が「フランスにおける王政の復興がヨーロッパの君主国の利益になる」と宣言、結束しての行動を呼びかけたことにフランス革命政府は「革命への干渉」と反発、1792年4月オーストリアとプロイセンに対し開戦する。この時、出征する革命軍の義勇兵を鼓舞するためにルージェ・ド・リール大尉が書き上げた行進曲が今もフランス国歌として歌われている『ラ・マルセイエーズ』である。最初の国民軍ともいわれる革命軍は当初はオーストリア・プロイセン連合軍に敗退し、パリに外国軍が迫る事態もあったが、9月にプロイセン軍に勝利、11月にはオーストリア軍に勝利して勢いづく。
→YouTubeで聞くラマルセイエーズ

その一方で、革命政府の内情は革命の路線を巡ってすさまじい権力闘争、党派闘争が続いていく。その動きはあまりにも目まぐるしく複雑すぎて、我々日本人にはにわかには理解できないのだが、共和制を目指すジロンド派によって1792年のフランス革命戦争戦争の火ぶたが切られ、1793年1月には急進的なジャコバン派の主導によりルイ16世の処刑という悲劇が起こる。

当初は大陸での戦争を傍観していたイギリスだが、フランス国王の処刑に至り、フランスへの輸出禁止措置をとることで反革命の意思を鮮明にする。フランス革命政府はイギリスオランダへの宣戦布告で応える。これに対しイギリスはスペイン、オーストリア、プロイセン等の君主国と対仏大同盟を結成、ヨーロッパ全土が戦乱に巻き込まれていくことになる。

当初、イギリスはフランス革命を傍観した。これをどう見るか? ひとつにはアメリカ独立戦争の後遺症があったのではないかと思う。日本の太平洋戦争、アメリカのベトナム戦争やイラク・アフガン戦争など、戦争に疲弊した後の社会には厭戦感が蔓延するものである。新鋭艦フェートン号の進水直後の退役(除籍)処分を見ても、戦備縮小による財政再建が喫緊の課題であったと読み取れる。

Mary Wollstonecraft

もうひとつは当時のイギリスの思想潮流である。イギリスを代表する保守論客エドモンド・バークのように英国民の歴史的所産としての名誉革命(人民主権ではなく、国王と臣民との契約による君主制)を盾にフランス革命を激しく非難したが、一方で1792年には女性思想家メアリ・ウルストンクラフトが男女同権と教育の機会均等を訴えた『女性の権利の擁護』を出版している。彼女はバークに反して、フランス革命を支持したといわれる。世界は平等と自由を求める啓蒙時代の真っただ中にあったのだ。にしても、である。「世界中の国王に死刑を」と訴え始めたフランス革命の思想はイギリスにとってあまりにも危険であった。

一方で、アメリカ独立戦争でフランスに同盟と参戦を求めた新生アメリカ合衆国は、この革命政府にどう対応したのか?

西洋社会の中でフランス革命への対応に最も苦悩したのが、アメリカであろう。イギリスとの独立戦争緒戦時、軍事的に圧倒的に劣勢なアメリカはすぐさまベンジャミン・フランクリンをフランスに送り、翌1777年のフランス国王ルイ16世がアメリカ合衆国を承認してくれて米仏同盟につながったのである。その上、フランスのラ・ファイエット侯爵らはアメリカに渡って独立戦争に参加していた。そのラ・ファイエット侯爵はフランス革命を指導している一人でもあった。

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