21 襲撃の決断

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前章で述べたマカオ以降の航海の特徴、その③その④の検討に入ろう。帆船時代の船上生活はロマンチックな世界とは程遠い。その現実を描いた論文があるので、紹介しよう。Midshipman(士官候補生)について検索していた時に偶然見つけた論文であるが、Samantha Cavellという大学院生(オーストラリアのブリスベーン出身のようである)がルイジアナ州立大学(LSU)歴史大学院に修士論文として提出したもので、論題は”MIDSHIPMEN AND QUARTERDECK BOYS IN THE ROYAL NAVY, 1793-1815”(2006)である。このキャベルさんは現在(2021年3月) Southeastern Louisiana Universityの歴史学教授のようだ。LSUはこのようにいろんな論文を公開しておりダウンロードも出来る。そのシステムも素晴らしいがそれを日本から読める時代になったこともデジタル化の恩恵であり、研究家の楽しみでもある。その中にFrederick Chamierという少年がフリゲート艦Salsetteサルセットに初めて乗艦した時の印象が紹介されている。1809年のことで、年代的にはまさにフェートン号の長崎襲撃と同じ頃である。

“私は舷窓に大砲を装備した優美な世界を期待していたが、そこではジャケットはおろか靴や靴下も履いていない水兵たちが樽を転がして働き、甲板は濡れて滑りやすく、酷い悪臭が漂って胸が悪くなるような世界で、Midshipman(士官候補生)はといえば汚れた帽子にくたびれたジャケットを着て手袋はなく、中には靴を履いていないものもいた”

これが映画やTV番組とは違う現実の世界である。木造の帆船は、コーカーCauker(コーキン工)という水漏れ専門工が乗船しているほど水漏れが当たり前なので、手動の排水ポンプを使っても船底にはビルジという汚水が必ず溜まる。腐敗した食物の残り滓や船内に大量に生息しているネズミの死骸が、そこに滞留して堪らない悪臭のもととなるのである。この物語の100年前の英国の水夫エドワード・バーロー(1642-1703)が書き残した日記(「海洋国民の自叙伝―英国船員の日記」)が当時の帆船生活を知るうえでいろいろな参考になる。彼によれば水夫の20人から30人に1人しか読み書きが出来ない(13p)そうだから、貴重な資料である。彼は当時の世界のほとんどの海を渡り歩き、オランダ人に捕えられてバタビアに1年間拘禁される経験をしたり、儲け話の多い日本に憧れたり、と機会があれば別の章で紹介したい内容が満載なのだが、ここでは食事の話を取り上げよう。「牛肉は1週間に3回、臭い水は炎天下で1日4分の1ガロン(約1リットル)」(30p)「潮水で肉を煮るので辛くて身体が乾いて堪らない。火のよう」(46p)とあるように、樽に貯蔵された水は臭く、塩漬け肉は辛くて大変だったようだ。フェートン号がマラッカやマカオで盛んに生牛を積み込んだのは新鮮な肉が水兵たちにとって大変な振る舞い(インセンティブ)だったことがわかる。英海軍は過酷な勤務のためいつも志願者不足で定員不足であった。そのため食事の際の肉や酒の量が商船よりも良い待遇だったから、バーローの商船で供されたように牛肉が1週間に3回ではなく、英海軍規定(「14 マカオへ」に記載の海軍食料規定を参照してください)により軍艦では毎日供された筈である。それも備蓄があれば、の話であるが。

マカオを出航したのが、8月31日。既にマドラス出航から50日が経過した。マカオには20日あまり滞在したが、補給と修理作業に明け暮れて、水兵たちが休暇はおろか上陸を許された気配もない。前章で見たが、マカオ出航後は戦闘訓練や乗船上陸行動に関わるボートの整備に明け暮れる日々が続く。その影響と思えるものを日誌から紐解くことが出来る。

「その③船内の洗浄回数が増えた」を検証しよう。上甲板近くに居住する士官や下士官と違って、水兵たちの多くは下甲板近くに居住する。当然、悪臭に近いし不衛生でもあるから下甲板の洗浄が必要になる。作業の詳細は分からないが、排水ポンプで汚水を吐き出し、海水で洗浄するのだろう。この作業は航海の前半ではほとんど行われなかった。その分の溜まった汚水洗浄をマカオ停泊中に3日もかけて徹底的にやったのだが、長崎沖を遊弋中の9月17日と長崎襲撃直前の10月1日にも洗浄を行っている。下の地図の⚓のマークが洗浄を実施した日と場所である。

これには長い航海の他にもう一つの理由が見え隠れする。時は秋、9月である。東シナ海から日本にかけて台風の季節である。8月にマカオに着き、10月初めは長崎沖にいたフェートン号が台風に遭遇しない筈がない。日誌には常に風力と風向きの記述があるが、これを解析するとマカオ停泊中と長崎沖遊弋中に台風に遭遇した可能性が大きいのだ。日誌の午前午後夜の風力を記録した表を参照してほしい。因みに英海軍に1838年に制式採用された風力表の策定者Sir Francis Beaufortフランシス・ボーフォート卿は1800年当時このフェートン号に乗り組んでいた士官でマラガの海戦で重傷を負っている。1805年にこの風力表を発表した。後にRear Admiral提督、Sir卿となっている。杉浦名誉教授に敬意を表し、氏の手書きの表とBeaufortの像を下に掲載する。フェートン号の航海日誌(1808年)はこの風力表に基づいて記録されている。

8月24日から27日にかけての4日間、連日強風が吹き荒れ、大雨や雷雨に見舞われている。中でも24日のstrong gale(ボーフォートの風力表では12段階の9番目。風速24ⅿ前後)は全航海中、初めての表記である。同じような気象が9月8日9日前後に起こっている。この2期間は台風の可能性が非常に高いといえる。恐らく艦の隅々まで水浸しになったであろう。これが9月3日や17日の下甲板洗浄を行った原因と思えるのだ。

台風の強烈な風雨は艦上艦内いたるところを水浸しにしたことだろう。狭い艦内に所狭しと吊り下げられたハンモックも水浸しで、非当直時間にようやく就寝にありつけても気持ち悪いねぐらであったろう。そこへさらなる負荷が水兵達にのしかかった。戦闘訓練と上陸のための整備作業である。マドラスからマカオを出航するまでの52日間で小火器(マスケット銃など)や大砲を使った戦闘訓練は、マドラス出航直後の7月13日とシンガポール島を回って南シナ海に出た8月3日以来である。それがマラッカを出航して目的地が日本と明示されたのは9月2日(「14 マカオへ」を参照)。そこから戦闘訓練の回数が一気に増加するのだ。日本はイギリスの敵フランスの属国であるオランダに貿易を許可しており、イギリスには国を閉ざしている。いわば準敵性国家と言ってもよいことを乗組員はわかっていただろう。その国の近海でオランダ船を攻撃拿捕するか、最悪は長崎港を襲撃してオランダ船を拿捕する。日本側の反撃は当然予測せざるを得ない。となると訓練も緊張感溢れたものになった筈である。マストトップの見張り員の「オランダ商船発見!」の叫び声とともに、コーターデッキ(艦長らが蝟集する船尾の一段高いデッキ)から艦長もしくは副長がメガホンで「総員配置につけ!」の命令が飛び、ボースン(水夫長)の鋭い警笛が水夫たちの行動を指示すると、大砲に取りついた砲兵は開け放たれた舷窓から砲口を突き出し、パウダーモンキーと呼ばれる少年たちは船底から火薬袋を抱えてラッタル(階段梯子)を駆け上り、海兵(マリーン)たちはマスケット銃に弾丸と火薬を装填して持ち場につく。艦上艦内が一気に火事場のような騒ぎになるのである。数門の大砲が轟然と咆哮して砲弾を発射すると着弾点と距離を確認して、ようやく演習が終わりとなる。それに加えてボート類の整備が加わった。カッターやランチなど積載ボートは、商船への乗り組みや長崎港内での行動に使われるので綿密な整備が欠かせない。近接戦闘に備えてカロネード砲(散弾を発射する小型の砲)の取り付けも行った。その訓練の場所は、台湾海峡の第2哨戒区域、東シナ海の第3哨戒区域、長崎沖合の第4哨戒区域で行われたが、それを表示したのが下の図である。マラッカまでの日々とはがらりと変わった厳しい日々が続いたのだ。乗組員たちの負荷の増加は下の表でも明らかである。

PDF版で見る火器訓練とボート整備の日程 ←上記の表が見にくい人はこちらをクリックしてください。

さらに台風などの雨による生活環境の悪化、日々の訓練負荷の増加による乗組員たちの疲労に加え、水の制限という苦難が始まったのである。マカオで連日のように水を補給したフェートン号は、マドラス出航時の113トンを上回る114.5トンの水を積載している。恐らくこれが満載に近い数字なのだろう。因みに杉浦昭典名誉教授によると、トンTonとはフランス語のTunが語源で、このTunは樽を叩いた音から生まれた言葉だという。1トン樽を使用して、バラスト(おもり)代わりに船底に115本ほどの樽を並べていたのだろうと想定される。マカオを出てから樽の水漏れが数日にわたって発見されコウキン工が修理にかかっている。マカオで水を満載したという安心感だろうか、水の消費も9月2日と3日は1日2トンの水を消費した。そこで9月10日から1日1トンの水消費の節減が始まった。乗組員にとっては1日わずかブリキ缶にして6杯の制限がかかったのである。9月という季節、重労働の毎日、来るべき戦闘への緊張感、そして水の不足。これは何をもたらすか。士気の低下、風紀の紊乱、である。水兵たちの不正行為が目につき始める。それを示すのが、鞭打ち刑の実施である。マドラスを出航してマカオに着くまでの1ヶ月間、鞭打ち刑は一度も行われていない。しかしマカオ到着後の8月11日に最初の鞭打ち刑が行われ、9月に入ると3度も行われ、処罰者も増える。下記の図表で一目瞭然である。

英海軍は酒を積んでいる。海軍食料規定にも毎日のビールの支給が明記されている。フェートン号では恐らくアラック酒であろうと以前書いた。その酒が盗まれているのが発見されたのは8月28日であった。その日の航海日誌に「389番の酒樽を検査 7ガロン分が消失」との記述がある。9月1日海兵ロブ・ハンソンの窃盗と9月15日の海兵ロバート・アンソンの窃盗はこの酒盗みかも知れない。さらに9月19日には水兵ジョシュ・マーチンが酩酊で罰せられているから、艦内に酒盗みのネットワークがあったのかも知れない。

が鞭打ち刑実施の日である全行程後半に集中している。

処罰された海兵や水兵には同情する余地が十分にある。上陸も許されず、日増しに訓練の度合いが増し、敵地に近づいてゆく。酒ぐらい配給以上に飲みたくなるのが人情だろう。この酒盗みと鞭打ち刑の残酷さについては「14 マカオへ」で詳説しているので、ここではこれ以上触れないでおく。

そういう過労のせいだろうか、初めての重大事故が9月19日に起こった。この日は朝7時20分、ジョシュ・マーチン水兵が酩酊と上官侮辱罪で24回の鞭打ちを執行された。上官侮辱とは私の意訳で原語はInsolence“横柄無礼な行動”である。命令を無視したとか、口答えしたとかの行動だろう。軍事用語らしく上官侮辱とした次第である。それにしても朝7時20分に鞭打ちだから、帆船の世界の過酷さは水兵にとってはたまったものではない。オランダ船を求めて哨戒中で、長崎は東方240㎞、五島列島南端までは135㎞の位置である。この日は全般的に天候はよく、午前中に雨が降ったがすぐに上がっている。午後も同様だったが、夕方5時30分の点呼終了後になって風が強くなり時に雨模様となった。最上段の帆を畳む作業を行っている。風の影響を弱めるためである。その作業中にジェームス・スチュワート水兵が最上段の帆桁から海へ転落したのだ。9月中旬、日本最西端の長崎からさらに240㎞の地点である、午後5時30分は昼間の明るさであったろう。Overboard!(落水者!)の声を聴いて、水夫長補佐(Boatswain‘s Mate)のトム・ダールTom Dar がロープを持って飛び込み、スチュワートを捕まえ、ロープで確保しようとした時、そのロープをすり抜けてあっという間にスチュワートは海に沈んでしまったのだ” the Man instantly descended “。トップマストの高さは10階建てのビルほどの高さである。そこから落ちればコンクリートに落ちるのと同様の衝撃というから、スチュワートは意識を失っていたか、瀕死の状態であったのだろう。この間フェートン号はすぐにボートを下ろし、水夫長補佐を収容したが、この顛末を日誌記述者ストックデールは以下のように記している。

“This Evening James Stuart( Seaman) in the act of aloft to reef Topsails fell overboard & was apparently drowning when Tom Dar(Boatswains mate) jumped after him with a rope to haul him in with & succeeded u in getting to the unfortunate Man with the rope but in the attempt of hauling him in the rope _ & the Man instantly descended. During this Interval a boat was lowered down, & _ possible actions made to save the sufferers: Picked up the Boatswains Mate & hoisted the boat up.    今夕、上級水兵のジェームズ・スチュワートが上段の帆を縮帆作業中に落下して海上に投げ出され溺れるのを見て甲板長補佐のトム・ダールが直ちに体にロープを巻いて海に飛び込み、不幸な水兵を救助しようとしたが彼にロープを巻きつけようとしたその時水兵は海中に没してしまった。救助作業のために艦載艇も降ろされたが甲板長補佐を収容して艦載艇は引き上げられた”

綿密な記述をするストックデールは私情は一切挟まず、ただ淡々と風の方向と風力、帆の操作を記していくのだが、この事件は珍しく出来事を上記のように詳細に報じている。このような記述は他には長崎を襲撃した時に1ページに渡って所感を述べているだけで、それ以外は一切例が無い。フェートン号がこの事故と水夫長補佐の勇敢な行動にいかに湧き上がったかを如実に示している。それにしても間髪を入れず海に飛び込んで落水者を救おうとした水夫長補佐は、厳しい航海の中で唯一の光明を放っている。

航海日誌を分析すると、さらに面白い事実に気づく。死亡者の発生である。マドラスからマカオ停泊中の8月23日までの44日間で、3人の病死者が出ている。下図のが死亡者の出た日である。だが、訓練が苛酷になり水の配給が半分になった9月以降病死者が出ていないのだ。これは戦いが近いという緊張感がもたらしたのではないだろうか。戦争が始まると自殺者が減る、というレポートを読んだことがある。

さて航海の目的であるオランダ船の拿捕だが、台湾海峡、東シナ海、そして長崎沖での哨戒にもかかわらず、オランダ船は網にかからなかった。中でも最終の長崎沖での哨戒は9月15日に海域に到着してから10月3日までの19日間にも及ぶ徹底したものだった。だがオランダ船は現れない。一方でフェートン号の側にも切迫した事情が現れた。水と食料である。10月3日の時点で水の残量は74トンになった。これまではマラッカ到着時点で87.5トン、マカオ到着時点が一番少なく64トンであったが、今フェートン号は大海の真っただ中である。2,000㎞も離れたマカオ以外、どこにも有効な寄港地はない。食料事情もひっ迫している。「14 マカオへ」で見た通り、フェートン号の1日の牛肉消費量は125.7ポンド、マカオでの積載量が4,335ポンド、これを消費し切るのは10月3日である。そこで牛肉積載量はゼロになる。最終オプション、長崎襲撃を決断する時が来たのだ。

9月30日、フェートン号は哨戒海域の東端、五島列島からわずか60㎞、長崎まで160kmの至近距離にいた。オランダ船が見つからないので西進し10月2日には済州島(チェジュ島)の南70㎞地点にいた。だが無駄足であった。ここで長崎襲撃決断したのだろう、翌10月3日は五島列島西へ戻った。引き金は月齢である。

電気が生まれる以前、太陽が沈むと闇が世界を支配した。星が空に輝いても、その光は地上に届かない。無力である。ただ月明だけがそこに光をもたらす。もし長崎港に潜むオランダ船を襲撃するとなると、水と食料の問題も同時に解決せねばならない。昼間だけでなく夜も行動を続ける必要が出るだろう。既にスチュワートから長崎港の警備体制の情報は入手している。日中であれ夜間であれ、日本側の反撃は予想される。そうなると致命的な鍵を握るのが月明、月の光である。

1808年(文化5年)10月、満月は10月4日である。しかも天祐か?9月24日の豪雨heavy shower 以来、天候は安定している。

10月は1964年の東京オリンピック開催期間に選ばれたほど天候が安定していることをこの時のフェートン号は知る由もないが、夜空が晴れて満月が輝いていれば、長崎港内の活動に不安はないだろう。こうしてフェートン号の艦長フリートウッド・ペリューは決断を下した。10月4日、長崎港を襲撃する、と。