24 衝撃のレザノフ滞在日記

レザノフ『日本滞在日記』(大島幹雄訳)は、さまざまな事を明らかにしてくれる貴重な資料である。このあとの本文の中で詳細に検討するが、まず冒頭にどのような点が資料として画期的な意味を持つのか、を例示しておこう。

① ユニークで率直な視点

最初に指摘しておきたいのは、事件の主役であるレザノフが滞在中に見たこと感じたことが、率直に語られていることである。ドゥーフの「オランダ商館日記」は、のちにバタビア(ジャカルタ)の政庁にいる総督や上司が閲覧することを念頭に置いて記されている。その例は、レザノフが半年の滞在(実際は幽閉)のあと出港した日の日誌には『以上をもって私は、この重大な事件において起こったことのすべてに関する秘密の報告を、会社上役各位が当地で私のとった措置を好意をもってご承認下さることを望みながら、閉じる。(署名)ヘンドリック・ドゥフ・ユニア)』と記しているように、日記の体裁でありながらそれは業務報告書でもある。だから、例えば奉行の要請でナデジュダ号へ赴く際には商館内の委員会で了承をとったことを書き留めるなど、自分の行為が業務規則に反していない事を注意深く記録として残している。ドゥーフに止まらず、他の商館長も同じである。それだけに通詞の発言、その他の役人との折衝、長崎の街の人々の交わり、には彼らの素顔や息遣い、表情が語られることは無いし、商館内の他のスタッフのエピソードや妾とした丸山遊女との私生活などプライバシーに類することも触れられていない。そういう意味ではレザノフの日記も記録を意識したものであることは同じである。19世紀初頭は15世紀後半に始まった大航海時代の尻尾とも言える時代で、啓蒙思想や百科全書などヨーロッパ社会から見て未知の世界の動植物や人間の暮らしぶりの発見探求に熱狂した時代で、探検家や遠征隊は必ず画家を同行して記録させた。ジャワ統治時代のラッフルズもジャワの生活についての詳細なグラフィカルな資料、記録と報告を作成している。ナデジュダ号はロシア王朝初の世界一周を目指したものだから、船長のクルーゼンシュテルンも船医として同行したラングスドルフも帰国後にこの遠征についての本を出版している。当然、レザノフの日記も歴史的価値を意識して記録されたものである。だがその語り口は率直であり、ロシア皇帝の全権大使という立場から誰にも遠慮がない。また長崎奉行所とのやりとりや将軍代行である幕府の使者との謁見においても常に対等を求める。そこから逆にオランダ商館の「オランダ政府の大使的役割でありながら商売のために屈辱的立場に甘んじている」実態が浮き彫りになるのである。

② 通詞たちの肉声

次に注目したいのは、通詞たちの肉声がイキイキと語られていることである。「オランダ商館日記」に出てくる通詞たちの群像は、常に奉行所のスパイの役割をも併せ持つ人間としてオランダ人が用心深く接していることが特徴である。そのような意識のないレザノフは通詞たちの実相をそのまま記しているので、膨大な数に上る通詞の研究や本では知ることの出来ない通詞たちの日常の息遣いが覗けるのである。例えば本木庄左衛門を見てみよう。通詞の名門本木家に生まれた庄左衛門は、レザノフが来航した時、37歳の筆頭小通詞であった。大通詞4人、その次の小通詞4人の筆頭であるから幹部である。しかも世襲により大通詞に昇格するのは約束されている人物である。のちに詳細に紹介するが、「(レザノフに連れて来られた若宮丸の漂流民が)羨ましい!彼らは世界を見ることが出来たんですよ」と言ったり、レザノフが帰国する段になると明け透けに自由への渇望を口にし、また幕閣の対応がどう迷走したか、正直にぶちまけるのである。このような通詞の本音は、他の資料にはま全く存在しない、極めて貴重なものである。(→➉言葉になった「自由への渇望」に詳しく解説しています)

③ ロシア受容論の存在

上記の庄左衛門の証言によって、実は幕府の中にロシア受容論があったことが明かされる。従来半年も返事しなかったのは、レザノフらを放っておくことで焦らせば諦めるだろう、との時間稼ぎだったという見方が有力だったが、どうやら幕閣内の意思統一が出来ず、朝廷に意見を求めたり、200年も前の事例を調べようとしたりと、迷走した実態が浮かび上がってくる。通詞のトップクラスとなれば、長崎へ来た一級の知識人(大槻玄沢、平賀源内、大田南畝)等との交遊、オランダ渡来に目が無かった諸大名との付き合い、歴代の長崎奉行の「耳と口」としての機能、江戸から派遣された検使遠山金四郎一行の接遇、などを通して幕閣の重大な機密情報に接することが出来たのだろう。これもまた他の資料には見られない、幕府の対外政策研究を塗り替えるほどの極めて貴重な情報である。→ ⑥ 鎖国派と開国派の戦い に詳しく解説しています

④ 日本語を話すロシア大使

実はレザノフは日本語が出来た。彼はどうやらドゥーフと同じく、言語に特別な才能があったようだ。ロシア宮廷の公用語はフランス語であったから当然堪能だった上にオランダ語も理解できた。4か国語を自由に話したという。レザノフ日本滞在日記の訳者である大島幹雄氏が主宰する石巻若宮丸漂流民の会が発行した「若宮丸漂流民物語」が貴重な情報を提供してくれている。これによると若宮丸漂流民の一人である善六がロシア語に堪能になったらしくレザノフ遠征隊に同行し、1年2か月の間『レザノフに日本語を教え、露日辞書を作った』とある。(善六は洗礼を受けたためキリスト教を禁教とする日本へ行く直前のペトロパブロフスク(現カムチャツカ州)で下船している)。レザノフの素晴らしいところは、臆すること無く誰にでもカタコトの日本語で話しかけたことである。この世界周航計画の発案者であり、ナデジュダ号の艦長でもあるクルーゼンシュテルンは仮館のが護衛警戒が凄まじいと書いているが、ロシア人贔屓になった警護兵たちはレザノフが近所を歩き回って日本人と接するのを見て見ぬふりをしてほとんど妨害していない。例えば西暦1月20日(文化元年12月20日)の日記には『門があけっぱなしになっていたので、外に出て戻ってみた。警固兵たちは何も言わなかった。彼らを少しずつ慣らすために、次の日までそのままにしておいた。』という記述がある。そのため彼は実質上仮館に幽閉されていながら近所の日本人たちと語らうという稀有な体験を重ねる。子供たちとなぞなぞ遊びをしたり、法華経の僧侶の読経を聞いたり、既婚夫人の鉄漿(お歯黒)をからかったり、飴細工屋から美しい飴を振舞われたり、という体験を重ねてゆく。加えて彼はスチュワートと同じようにとても人懐こい性格だったようで、誰からも慕われることになる。当時の長崎の街は極めて狭い。私は長州の萩を訪れた時に街の小ささに驚いた。海辺の小さな街から維新のエネルギーが噴き出たことに驚嘆したのだが、長崎とて当時の社会で果たした役割に比べると街は恐ろしく小さいのである。だから十数分も歩けば長崎のほとんどの人がこの仮館を見ることが出来た。そこで見たロシア人たちは長崎の人々にとても好印象を与えたようだ。オランダ人とは人々の印象がずいぶん違ったようである。そのためレザノフの帰国が決まった後は、幽閉されている仮館は門前市をなすほどレザノフと別れを惜しむ人々(その中には幕府が派遣した検使に同行した沢山の役人たちがいた)が群がるのである。こういう消息はこれまで全く語られることが無かった。長崎に残る当時の文書にもレザノフの人柄や人々との交流を残したものはないようだ。鎖国という幕府の厳格な統制のもと、人々の記憶の底に閉じ込められたままになったのであろう。残念なことである。結局、教科書を含む歴史関係書ではラックスマン、レザノフ、ゴローニンという日本と関わったロシア人の名前だけが無機的に語られるだけで、レザノフをめぐる別れの熱狂はついに語られなかったのだ。彼及び同行した81名の随行員や終始統制の取れた警備兵も含めて、長崎の人々やレザノフ一行と関わった人々は別れを惜しんだのであるが、そういう記憶が消えるとともに「ロシア人」の人柄や魅力についてその後の日本人は型にはめた見方にとらわれたのでは無いか、と思えるのである。1904年(明治37年)日露戦争が勃発してロシアが敵国になったこと、1917年(大正6年)ボルシェビキ革命でロマノフ王朝が滅ぼされ、王朝時代のことを全否定したソヴィエト共産党による歴史観が一般化したこと、が主因であろう。ロシア革命成立後、共産思想はヨーロッパ、日本、アメリカで急速に普及し、日本では革命前のロマノフ王朝の記憶や研究は跡形もなく消えてしまったように思えるのだ。我々はトルストイの「戦争と平和」やショーロホフの「静かなるドン」などの文学でしか革命前のロシアを知ることが出来ない。特に太平洋戦争後は学界、特に歴史学ではソ連派が圧倒的になり、革命前のロシアはすべて悪と決めつけられて研究も進まなくなったように思われる。太平洋戦争は、日本を徹底研究したアメリカ側からルース・ベネディクトの『菊と刀』を生み出したが、一方でGHQは多くの書を発禁処分とし、家族制度、相続制度など多くの『日本的』なものを破壊した。しかしボルシェヴィキの革命後の破壊活動は量的質的に凄まじく徹底していたろう。反革命と見做されれば銃殺されるかラーゲリ(強制収容所)送りになる。人々の間からロマノフ王朝時代の良きことは瞬く間に消えていっただろう。レザノフの「日本滞在日記」の発禁処分はそのささやかな事例の一つである。そのため日本からも世界からもロマノフ王朝の文化や生活様式は消え去られ、日本にはソ連への反感だけが残った。大平洋戦争後のソ連の違法かつ理不尽極まる日本兵俘虜の扱いと北方領土問題がその反感に輪をかけた。歴史は常に勝者が嘘をつく、という観点を踏まえてもういちどロマノフ王朝時代のロシアの魅力を考えるべきだろう。

⑤ 対等な外交の要求

次に焦点を当てたいのは、「ロシア皇帝の全権大使」というレザノフの立場のこれまでにない特異性である。自分の帯剣や警護兵の銃引き渡しを拒んだり(浦賀に来たマシュー・ペリー提督はその『日本遠征記』で、このことを無用な摩擦を生じた愚かな行為、と批判しているが、レザノフにとってはロシア皇帝の権威を守る行動であった)、船内調査に来た奉行所検使へのお辞儀を拒否したり、幕府検使(遠山金四郎景晋かげくに)との会談で全く同等の扱いを要求したり、と長崎奉行所や幕閣にとって初めての経験となる、当惑させられることの多い交渉となった。通詞たちにも奉行所にもそして幕閣にも、オランダ人は商いが第一の商人、という頭がある。それゆえに何かの拍子に本音が出る。その本音の一端はレザノフ長崎来航わずか2週間後の10月27日、大通詞の石橋助左衛門(通詞団のトップ)が言ってしまう。

『彼らは私たちに年貢を払っているのです。我々でしたら彼らに命令を下すことができるのです。しかも彼らは商人です

この認識はのちにレザノフがロシアに帰国する直前、本木庄左衛門がもっと明快に言いのける。

『私たち通訳は、ここではとても大きな力を持っているのです。したがってオランダ人たちは、私たちの言う事に従わなくてはなりません。』

命令が下せる、言いなりになる、商人だ。これがオランダ人を飯のタネにしている通詞団の本音である。彼等は長崎奉行(その背後の幕閣)とオランダ人の間に立って、調整に奔走する姿がオランダ商館日記に多く述べられているが、実は「オランダ人を操っているのは自分(通詞)たち」という尊大さと、オランダ貿易で莫大な利益を共に得ている利益共同体のオランダ人を「商い優先の商人なのだ」と心の奥底では軽く見ていることが、レザノフの出現によって明らかにされるのである。そこにはオランダ商館長(カピタン)も同じくオランダ国代表であるが、ヨーロッパの小国のオランダ人が耐えてきた屈従を全く受け入れない大国ロシアの全権大使への畏敬と、レザノフがもたらすかも知れないさらに大きな貿易チャンス(それは通詞団の新しい利権につながる)が彼らをしてオランダ人を軽く見てしまう言動になってしまうのだ。長崎奉行にも同じことが言える。これまでスチュワートにしろ漂着民にしろ、祖法に従って退去を求めれば従順に従った相手と違って、伝統的な挨拶礼法の拒否、武器の引き渡しの拒否、何を取っても前例のない事態ばかりが出来(しゅったい)する。レザノフはエカテリーナ2世ついでアレクサンドル1世の宮廷侍従高官だけあって武威をひけらかすことなく部下たちの統制も行き届き常に礼儀正しく優雅に奉行所役人と接するのであるが、自分が軽く見られているのではないか、時間稼ぎをして自分を愚弄しているのではないか、と思ったときはカミソリのように鋭い言葉で「世界の半分を領有する(北米アメリカのアラスカもこの頃はロシア領)ロシア皇帝が相手だとわかっているのか?」と凄むのである。しかもリュウマチを病むレザノフは長い航海の後、上陸も許されず、健康を甚だしく害していた。これが長崎奉行たち(レザノフ対応には新旧二人の奉行が共に長崎で対応に当たった)の心胆を寒からしめることになる。いかに外交音痴の幕府の官僚である長崎奉行でも風説書の情報などから、ロシアがヨーロッパ列強の一角であり、強大な帝国という認識はある(事実、この8年後のナポレオンのロシア遠征は敗北し彼の凋落が始まる)。その全権大使がもし病死するなど取り返しのつかないことが起こったらどうなるか。取扱い不注意の咎で切腹を申しつけられる可能性がある。だから奉行二人はレザノフを出島に収容できないか、あるいは格式の高い寺院を宿舎として用意するなどの対案を考える。だが前例のないことは絶対にできないのが徳川幕府のシステムである。許可を得るために頻繁に急使あるいは急便が江戸へ送られ、しかしその度待てど暮らせど指示は帰って来ない(奉行等よりもっと外交音痴の幕閣はこれまでにないほど意思決定が迷走していた)、一方でレザノフは焦(じ)れる、この時期板挟みになって一番苦しかったのは奉行たちではないか、とも思えるのである。

⑥ 鎖国派と開国派の戦い

では幕閣ではなにが起こっていたのか。これまで幕閣の対応について詳細な研究はないようだ。だが、レザノフを通じた新しい貿易の機会を夢見ていた本木庄左衛門が、レザノフが空手形で帰国することになると失望と落胆で、3月10日(西暦4月9日)本音や知り得た機密をぶちまけるのである。将軍(家斉)がロシアとの通商にポジティブであったこと、老中が通商か鎖国維持かで対立があり、通商派の有力者が亡くなったため戸田采女ら鎖国維持派が勝利したこと、ロシアとの通商について朝廷にまで伺いを立てたこと、など驚くべきストーリーが披露されるのである。ところがその5日後、馬場為八郎がレザノフにその事情を詳細に解説する。この時馬場為八郎35歳。庄左衛門の二つ年下で同じく通詞の名門家に生まれた。ロシアがレザノフに一行の扱いに報復のために起こした魯寇事件の後、同僚名村多吉郎とともに幕府より蝦夷へ派遣される。為八郎が選ばれたのはロシア語をレザノフ一行から習得したからに違いない。レザノフの日記に為八郎がロシア語の綴りを使いこなすことに驚く描写がある。彼もまた通詞の中の俊英で、蝦夷から帰った後は庄左衛門とともに初の英和辞書を編纂している。後にシーボルト事件に連座して、出羽亀田藩にお預けとなった。幕末の語学の天才馬場佐十郎の養父である。その為八郎が語ったことは実に詳細で徳川幕府の外交史研究を塗り替えるほどの内容である。全文を紹介しよう。

「ラクスマンが受付取ったものが許可書であったことを知る必要があります?その時
委任状を出した重臣は出羽さまといいます。出羽さまは将軍の側近でしたので、将軍にロシアと通商関係を結ぶことがどれだげおおくの利益をもたらすかと説得しました。将軍も熱心にこのことに取り組みました。出羽さまは勝利を収めたのです。もうひとりの重臣で出羽さまの友人でもある蝦夷さまも彼を支持し、三人目の飛騨肥後さまも支持したのです。いまからこのあと何が起きたかを簡単に説明いたします。私たちは五年間首を長くしてロシア人を待っていました。六年目(寛政十年〔1798〕)に不幸にも出羽さまが亡くなります。ここで反対勢力が力を持ちはじめます。蝦夷さまには、この勢力に立ち向かうだけのカがありませんでした。彼は、二年後(寛政十二年〔1800〕)に引退に追いつめられました。飛騨肥後さま一人だけになり、ますます立場が弱くなったのです。民衆はロシアとの通商を待ち望んでいましたが、あなた方は来ることなく、騒ぎは静まりました。

あなたが日本に到着してすぐに、将軍は通商に同意することを明らかにしました。しかし一人の狡い重臣、出羽さまの敵、つまりはロシアの敵が、将軍を思いとどまらせ、根幹に関する法令に関しては、まず天皇の同意をもらわなくてはならないと言い出したのです。今回は特に新しくキリスト教の強国を受け入れるかどうかに関わる大事な問題だと言うのです。さらに彼は天皇に対して、彼を精神的な皇帝といってもいいと思いますが、将軍が天皇の最後の権力を奪おうとしており、ラクスマンに許可書を渡したときも、天皇には何も知らせなかったと、働きかけたのです。実際に何も知らせなかったのはほんとうのことであり、決断力をお持ちだった出羽さまは、その時天皇に知らせる必要がないと見なしていました。ついに天皇はこのそそのか唆しにのり、重要な案件を決定するには、幕府閣僚の同意が必要になったのです。集められた幕府閣僚たちは、この狡い重臣の策略に丸め込まれてしまったのです。彼の名前を私たちに聞かないでください。私たちは彼から厭われています。ただひとつだけ吾首えることは、将軍はあなた方の味方だということです。しかしいまは内乱が起こらないように、譲歩しているのです。しかし飛騨肥後さまが犠牲になりました。何故ならば天皇に報告しなくてもいいと主張した一人だったからです。あなたもご承知のように、私たちの国では約束はそんなに厳格に守られていません。日本の法律は、外国でも同じでしょうが、狭滑な解釈によっていかようにも変えられるのです」(「レザノフ日本滞在日記」347p)

この辺りの事情は私が知る限りまったくこれまでの常識を覆すことばかりである。大島幹雄氏によると(「レザノフ日本滞在日記」420p)出羽様は水野忠友(1802年没)、蝦夷様という幕臣は存在せず、飛騨守とは当時の勘定奉行中川忠英、だという。為八郎の言ったことに訳者の大島幹雄氏は彼等の当時の立場や力関係を考慮して慎重論を展開している。しかし私は積極的に支持したいと思う。と言うのも上記「③ロシア受容論の存在」にも書いたが為八郎ら当時の通詞のネットワークと情報収集力は尋常ではないのである。長崎奉行、有力大名、江戸から遊学する一級の知識人、こういう人々と日常的に接しているのが長崎の通詞団である。長崎にいて江戸が分かるか?ではなく、長崎の通詞だからこそ知っている機密事項が多かったはずである。その情報源の中で私が注目するのは大田南畝である。レザノフ来航のひと月前に、狂歌で歴史に名を遺す大田南畝(蜀山人)が支配勘定方として長崎奉行所に赴任している(55歳)。下級幕臣(御家人)の家に生まれたが、文才を発揮し江戸城に勤務の傍ら19歳の頃狂歌師として頭角を現す。田沼時代の絢爛の中で、田沼に重用された組頭の経済的な援助を得て大いに羽振りを振るう。大田蜀山人が号である。だが田沼を打倒した松平定信が寛政の改革に着手し田沼派の粛清が始まると大田南畝も雌伏して通常勤務に精を出す。だが寛政の改革をからかったといわれる有名な狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶぶんぶと夜も寝られず」(“ぶんぶ”は文武、勉学に励め武を鍛えよ、のこと)は大田の策と言われている。46歳の時、大田南畝は創設された「学問吟味登科済」を受験し(寛政4年/1792年)、首席となる。この時に同じく首席の成績だったのがレザノフ問題を処理するために江戸から長崎へ下向した幕府検使の遠山金四郎景晋である。学問吟味で首席になった時は21歳。実に大田南畝と親子ほども歳の差のある、25歳年下の俊英である(以上は大田南畝Wikiから)。その二人が重大事件を巡って長崎の地で再会したということになる。大田南畝は遠山の兄貴分的存在であったろうことは想像に難くない。遠山は幕閣中枢の最新機密情報を知悉している幕臣である。長崎でレザノフ対応に四苦八苦している二人の奉行は往復数週間かかる江戸からの下知状(命令書)を受け取る以外の情報源が無いから検使の到着は幕閣中枢の内情聴取の絶好の機会であったろう。それは大田南畝とて同じである。46歳という当時としては隠居することもある年齢にもかかわらず学問吟味で首席になってからは文才ではなく優秀な官僚として出世の階段を上り長崎奉行所へ支配勘定役として赴任している。時の奉行成瀬因幡守の家来ではなく、幕府直轄の任命職であり、長崎奉行を会計面から監察する立場である。彼自身の書き残した文章によると『奉行やしきを鯨屋舗と異名、此方屋舗をしやちほこ屋舗と唱(となう)、奉行之家来迄、此方やしきを遠慮いたし恐れ候(『新百家説林』)』(「長崎奉行」外山幹夫47p)というように長崎奉行所近くの丘の岩原目付屋敷に住んでいた。そのような重職であったからレザノフ対応の重大事には奉行に同席している。しかも彼はレザノフが梅香崎仮館に引っ越した翌日、レザノフに面会しているのである。二人の奉行は幕府を代表する職としての体面上、検使とともに正式な面談の日までレザノフには会っていない。面会した時に大通詞名村多吉郎が大田南畝を紹介するとレザノフは日本語で「太田直次郎」と言い握手を交わし、仮館に運び込まれた色んなロシアの物品や本、地図、博物的な資料を見ることが出来、「生涯の大幸、大愉快の至りにて病気も何も平癒致し候」(「レザノフ日本滞在日記」406p)と息子に書き送っているのだ。彼もまたレザノフの大ファンになったことは間違いない。江戸からはるばる下向した遠山金四郎景晋を迎えて二人の奉行と支配勘定役のねぎらいの宴は開催された筈で、その席であるいはまた他の機会にも根掘り葉掘り幕閣中枢でどういうことがあったのかを尋ねたろうし、遠山金四郎景晋とて自分の言動を注意深く律していなければならない江戸を遠く離れた長崎では自分の思いも吐露したろうし、事態処理に苦慮している奉行には知りうる限りの情報を共有したと思われる。しかも共に出世の機会を掴んだ試験で同じく首席同士だった父親のように歳の離れた大田南畝には腹蔵なく話したろうと思われる。とここまでは大田南畝と遠山金四郎景晋の長崎での交流について想像で筆を進めたが、実は重要な事実が判明した。「長崎オランダ商館日記」の342p注95に「遠山金四郎景晋は長崎着任後2月晦日から3月25日の長崎離任まで岩原目付屋敷に滞在した」とあるのだ。大田南畝と遠山金四郎景晋は一か月弱同じ館で起居を共にしているのである。学問吟味の首席同士のよしみで連日話が弾んだことだろう。大田南畝と遠山はレザノフとの面会がいかに楽しかったかを共有し、田沼時代の自由な空気を知っている大田南畝はロシアと通商すべしと説いただろう。だから幕閣中枢で何があったか、どういう経緯でロシアとの通商が潰されたのかを詳しく聞いたに違いない。そして遠山金四郎景晋が密かに披露した情報は当然重大機密ではあるが、奉行所の役人たち、通詞たち、常に油断なく情報収集に努めている各藩の聞役を通じて、拡散していったことであろう。こうしてレザノフが帰国することになった途端、通詞たちが内情をレザノフに打ち明けたと考えると、彼等の話には十分資料的価値があると思うし、信憑性は高いと思えるのである。寛政年間松平定信の命でオランダとの貿易は半減商売と呼ばれるような縮小政策をとられていたから通詞たちも長崎会所(貿易機関)も出入りの商人たちも新しい貿易相手の出現を大いに歓迎したと思われる。そういう空気が長崎に溢れていたという視点は極めて重要であろうと思われる。

その真偽は歴史の審判を待たねばならないだろう。ちなみに鎖国維持派のはロシアなど鎧袖一触と強がったという。儒学者の林述斎が『ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかない』と説くと、老中土井利厚は『(レザノフに)腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない』と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」 幕府の対応Wikiから引用)。だが、大坂夏の陣以降190年間(島原の乱を除く)実戦の経験のない日本の武士は、レザノフへの冷遇に怒ったロシア将校が率いる一団が蝦夷を荒らすと抵抗も出来ず逃げ回ることとなる(魯寇事件と松前藩の対応)。江戸にいて世界を見ず、前例のないことは決定できない幕閣の愚かさはこの時に始まっていたのだ。実は11月25日のオランダ商館日記にドゥーフが年番大通詞(その年の通詞団トップ役)中山作三郎との面白いやり取りを記録している。その前日江戸から知らせが来て200年前に現れたシャムの大使の取り扱い事例を説明せよ、との指令が来たというのだ。作三郎は150年前に長崎の大火で多くの書類が焼失したから、奉行たちが調べようにも見つからないだろう、とドゥーフに漏らしたとある。ロシアの大使をどう扱うか判断する能力が無いので、レザノフ来航後ひと月も経った後に200年前の接遇の記録を長崎奉行に探し出せ、と命令する体たらくなのだ。ただただ前例にすがるしかない老中たち。再び言うが当時の日本は鎖国をしていても世界情勢のことを知っていたという説を唱える論者がいるが、この件だけをとってみても幕閣の無知と無能は明らかである。日本が国を閉ざした200年の間にヨーロッパは激しい戦乱に明け暮れて戦闘方法も武器も進化し、アメリカ大陸十三州は英国に勝って独立を果たし、その英国はすでに産業革命の真っただ中にある時代、フルトンが蒸気機関を発明し、蒸気船誕生は目前だった。それなのにドゥーフを含めて歴代オランダ商館長が彼らの生き残りのために取捨選択して作成されたヨーロッパ情勢報告書「風説書」を頼りにし、しかもあくまで前例主義で判断を下そうとしていたのが徳川幕府の実態である。それがレザノフの来航でメッキが剝がれていったのだ。

⑦ 日本人の熱狂

次に注目すべきは、当時の日本人がレザノフ一行との別れに見せた熱狂である。異国人への日本人の興味は、レザノフ一行だけに向けられたわけではない。オランダ商館長の江戸参府の際には京都や江戸の定宿長崎屋は見物人で鈴なりであったし、スチュワートの人気は「15章 スチュワートの登場」で見た通りである。入港10日後には

『長崎の住民たちは一日中私たちをほってはおかなかった。絶え間なく艦の後ろや前を取り囲むようにして航行していた。このため一日退屈することがなかった』

とレザノフは書いている。当初は旗や幟を立てた各藩の軍船や番船が港をうめ尽くす様にナデジュダ号を取り囲んでいたのが、10日が経過してレザノフ一行が危険な存在ではないことが知れ渡って、規制などものかわ、人々が異国船見物に繰り出したことがよくわかる貴重な観察である。また、奉行所の役人等も一行にとても優しく接している。1か月後の11月15日には

庄左衛門は夕方までずっと私たちのところにいた。日本の役人たちも、まるでずっと前からの知り合いのように、部下たちの船室で過ごしていた。概して日本人はロシア人を好いていた。

通詞たちは職業柄ロシア語に興味津々で、レザノフは日本語で、通詞たちはカタコトのロシア語でやりとりも始まった。圧巻はレザノフ一行が帰国することになった後の、人々の行動である。帰国(4月18日)目前の14日、江戸から派遣された目付けの遠山金四郎に随行した3人の役人、原田寛藏(徒目付)、鈴木金右衛門(御小人目付)、猪岡七左衛門(御小人目付) がレザノフを訪ね

『祖国を愛するすべてのものは、私たちの出発をとても残念に思っていますと言ったあとに、白い扇子を山のように取り出した。私に何か記念に書いてもらうためだった」「私が名前を書くと、原田が、日本語が話せるのだから、日本語も書けるはずだ、扇子に何か日本語で書けないかと聞いてきた」という注文に、レザノフは原田が選んだ古今集撰者の短歌を白扇に書き留めるのである。「 彼らは感謝の意を示すために、扇子を頭のところに持ち上げ、そしてロシア使節は日本語がしゃべれるだげでなく、書けることを示すために、この珍しいものを江戸に持っていくと語った。これは別に不思議なことではないのです、ロシア人が真剣に日本人を愛しているからできるのですと答えた。最後に彼らは私のところでワインをグラス一杯飲み、どれだけここでロシア人が愛されているかを強調し、私のもとを去っていった。このほかにも他の役人たちは、私の部下たちに名前をサインして欲 しいとたくさんの白い扇子を持ってきていた 。』

これはなんということだろう。彼らは幕府で選抜されて随行員を務めている御家人たちである。その職務は精選版日本国語大辞典によると[〘名〙江戸幕府の職名の一つ。目付支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩内情を探ることもあった。定員50人]とある。幕府の警察官僚と言っていい。その彼らが見せた別れを惜しんだ心情はこれまでどの記録にも残っていない。この別れを惜しむ行動は原田等3人だけではなく、梅ヶ崎の仮館を警護する九州各藩の警護兵とロシア水兵の間でも全く同じ景色が展開されたのである。これら役人や警護兵たちだけではない。役人たちが別れを惜しんだ翌日、仮館の竹矢来の門(本来出入り禁止の筈が、警護兵たちはレザノフが近所の民家を見物に行くのを黙認していた。仮館に行くとロシア人に会えるという噂が広まっていたのであろう)のところに行くと

『門を通り抜けようと行ってみると、隣の家の二階に女たちが詰めかけ、私を手招きで呼んでいた。一人の老婆が、窓のところから私に深々とおじぎをしながら、他の女たちにも同じようにするように命じ、こう語りかげてきた。「私は八十歳になります、あなたを拝見するためにやって来ました。(ひとりの大きな娘を示しながら)これは私の孫娘です、そしてこちらがひ孫娘たちです。(ふたりの娘を手でつかまえながら)みんなあなたの出発を残念がっております。もう私たちはあなたにお目にかかることはないでしょう」そしてまた足元にひれ伏すようにして、子供たちに深々とおじぎするように命じた。私は日本語で感謝の言葉を述べて、これに対して何の恩恵もしめすことができないことがとても悲しいと言った。』

これまた驚くべきことである。仮館に隣接する民家の二階に大勢の女が集まりレザノフを見物していたこと、会いに来た老婆がいることをレザノフに知らせたこと、80歳の老婆(現代の80歳とは違い、当時は今の100歳に近い長寿の筈である)が異国人に孫娘とひ孫娘に挨拶させようと出かけて来て、レザノフと日本語で話したこと、など歴史の常識/通説を遥かに超えた出来事ではないだろうか。今度来たロシア人(オロシャ人)は日本語が話せるというのが長崎の人々の間で広く知られていたと考えねばなるまい。しかも挨拶しようと思い立つのだ。これが幕末の狂気の攘夷以前の日本人の当たり前の行動だったということになる。その3日後、いよいよ出立の日の様子をレザノフは次のように伝える。

『朝五時、朝日が昇ったことを知らせるラッパの音で起床する。四つ角のところの門がもう開け放たれているのに気づく。八時前に錠が聞けられたことを知った、驚いた。たくさんの日本兵たちが私のところに来て、お茶を飲んでいた。彼らが私たちの出発を残念がっていたのはほんとうだった。多くの兵たちの自に涙が滲んでいたのだ。私たちも心を動かされた。彼らは決してロシア人のことを忘れないと断言した。この後に役人たちが集まり始め、高官たちもやって来た。八時になると庭は人であふれかえっていた」。そして「錨が引き上げられ、十二時、およそ百般の挽船が私たちの艦を高鉾湾に曳航してくれた。大小さまざまたくさんの船が私たちの艦の脇や後ろや周りを一緒に航行していた』

という。余談だが実は大田南畝は、レザノフが仮館の柱に書き残した「日本のご厚恩難有(ありがたし)」を見たと証言している。彼は長崎滞在中に“彦山の上から出づる月はよか こげん月はえっとなかばい”と見事な長崎弁で歌を残した。先にも書いたが、攘夷が政治スローガンとなる前の日本人は異国人と接することに無上の喜びを感じていたことが歴然とわかるエピソードばかりである。そもそも長崎が江戸大阪に続く大都会であり日本中の知識人が長崎へ来たのは、そこに異国人が住む出島があったからに他ならない。だが水戸学による攘夷論が確立するのは、このレザノフが去ってから20数年後のことである。それを唱えた人々は異国人を間近に見た経験すらなかったろう。『観念による憎しみ』は日本人が本来持っている異国人への興味関心とは無縁にグロテスクに増幅していくことを幕末の攘夷排撃が示している。昭和の時代、クラシック音楽やジャズ、ハリウッドに憧れた大衆を「鬼畜米英」に追い込むのに数年しかからなかった。政治思想(もちろん革命思想はその筆頭である)の恐ろしさを我々は胆に銘じなければならないことを「レザノフ日本滞在日記」は教えてくれるのだ。

さて、ではレザノフの日本語とはどのようなものであったのか、誰でも知りたいと思うだろう。実はそのヒントが「レザノフ日本滞在日記」(77p)にあるのだ。長崎に到着後4日目のこと(10月13日)通詞たちとも顔馴染みになったレザノフが日本語を試すのである。既に通詞たちや検使の家来たちはロシア語を書き留め、しかも覚えたてのロシア語で乗組員に目につくもののロシア単語を尋ねて始めていた。通詞たち、とくに名門通詞家に生まれた者は幼少期からオランダ語の修行が始まる。それだけに初めてのロシア語であっても親しむのが速かったと思われる。それを見てレザノフも常套句は日本語で話すことにするのである。彼が発したのは「マンナナ ヨイノ ニポノ ファトノ」、つまり日本人は皆良い人だと、言ってみたのである。大島幹雄氏はレザノフの日記のロシア語原文に忠実に発音を拾ったのであろう。彼は恐らく「みんな よいの にっぽんの ひとの」と発音したつもりだったのだろう。だが彼に日本語を教えた善六(ペトロパブロフスクで下船)も残りの漂流民も石巻の人である。訛りもあって上記のような日本語の発音になったのかもしれない。だが長崎では連日通詞を相手の無聊の日々が続くことになるから、恐らく瞬く間に上達したと思われる。6か月後、ようやく幕府検視の遠山金四郎と二人の奉行との対面が叶うことになった時に、事前打ち合わせの席で「私は日本語で話しても良い」と提案して、通詞たちを困らせるのである。日本語の発音が奇妙でも間違っていても臆することなく話すレザノフはかえって長崎の人々の笑いを誘い、人気者になっていくのである。こういうところにロシアの悠久の大地が生み出したロシア人の善なる気質を感じるのである。それはどこか悪漢ながら、新世界が生んだスチュワートに通じるものがあるのだ。翻って、英国、フランス、プロシャなど大国の狭間の狭小な国土で抜け目なく生き抜いてきたオランダ人との気質の違いを感じてしまうのだ。それにしても、レザノフの日本語には長崎訛りはなかったろうか?大田南畝が「こげん月はえっとなかばい」と詠んだように、もしかしたら異国語に豊かな才能を持つレザノフのことだから、長崎弁と江戸語の違いを理解して江戸から下向している奉行配下の役人たちに「ヨカヨカ」(よいよい)と返事して楽しんでいたのではないか、と想像すると長崎で生まれ育った私は頬が緩むのである。

⑧ オランダ人の屈従

レザノフの日記が明らかにしてくれるのは、オランダ人の「屈従」の実態である。オランダ人はそもそも、ドゥーフがその回想記でGONGENSAMA権現様と呼んだように、徳川幕府で絶対的存在である徳川家康から朱印状を与えられ、ヨーロッパキリスト教国の中で唯一日本に滞在し貿易を許された。その上オランダの代表として数年おきに大名行列に匹敵する格式で江戸参府を行い、将軍に謁見を許される。だが鎖国体制の中で例外的な存在であるだけにちっぽけな長崎の出島に生活圏を制限され、その行動は常に出島目付や通詞等によって監視されている。ここまではよく知られた事実である。ワルデナールにしろドゥーフにしろ歴代の商館長はスパイに囲まれた緊張感で暮らしていることを商館日記に記している。時には気に沿わぬことであっても通詞達が「奉行が『要請』する」、と書き、実はそれは命令と同じことであると自分に言い聞かせて、『要請』に従うことを行間に苦渋を滲ませながら記録している。が、そこには会社の利益のために200年間耐えてきた「屈従」の実相は見えてこない。あるいは「見せてこなかった」という言い方が正解かも知れない。その闇に唐突に光を当てたのがレザノフの出現である。それはレザノフが初めてドゥーフと会った10月9日のことである。レザノフと会うまでを商館日記ではドゥーフは次のように伝えている。

『乗船すると船長が甲板で私を迎え、下の船室に導いた。その場には検使たちがソファに坐っており、その側に、金の垂れ飾りのある青い上着に、ローズ形ダイヤをつけた勲章帯、右胸に星、上着の背の左の結びに金の鍵をつけた、一人の人物が椅子に坐っていた。そして彼は、私が検使たちに挨拶をした後に、私に、騎士にしてロシア阜帝陛下の侍従レザノフであると告げ、同時に私に、彼が私宛ての書面を持っているが、しかし彼はそれを私に日本人がいないところで渡すように注意しなければならないと命ぜられている、と告げた。私はすぐに閣下に無事な到着を祝し、彼にいくらかのお世辞を一言い、それに対して折り返し私に答礼があった。私が閲下とこんな風にしているので、検使たちは私に、今彼らと一緒に尋問を始めようと、要求した。そこで、私はすぐにそれに同意し、こうして尋問は始まった。』

この文章ではドゥーフがレザノフとごく普通に会わされたように思える。だがレザノフの観察眼は鋭く、彼は見たことをありのままに書いた。

『やっと私たちは長崎商館長ドゥーフと彼の秘書たち、ムスケチールという(オランダ船)船長と会うことができた。私たちのところに入ってきて、挨拶の言葉を交わそうとした時に、突然通訳の責任者が、ドゥーフに儀礼の詞を大声で伝えた。通訳は膝をつき、お辞儀をした。オランダ人たちも同じことをしなければならなかった。検使の前で彼らは腰を曲げ、手を膝にあてながら、首を横向きにし、通訳の長い演説が終わったかどうか、そしていつ立ち上がることを許してくれるかどうかをじっと見守っていた。役人たちと話す時はいつも同じことが繰り返された。オランダ人たちは、こうした自分たちの卑下した態度を私たちに見られてしまったことをひどく恥ずかしがっていた。』

このあと、検使に代わって尋問や武器弾薬の引き渡しについて交渉した後ドゥーフは自分たちが狭い島に閉じ込められて監視されていること、奉行たちはオランダ人の助言なしには何もできない、外国船はいずれも追い返されるのにレザノフの船は通常より長崎港に近いところにいるなどと話し、レザノフは彼がレザノフらの来訪を快く思っていないのではないか、との印象を持たれている。翌日ドゥーフは再びレザノフと会う(それが最後になる)のだが、

『オランダ商船の船長ムスケチールとベルマーと旅行家アンジー・グロチンゲルン男爵が、ドゥーフのあとに従い、ケースに入った剣を持ってきたのだ。彼らが船室に入り、私に挨拶しかげた時に、突然通訳が彼らをおしとどめ、アンジー・グロチンゲルンに儀礼の詞を言うと、彼らはしばらくの間腰をかがめたまま立っていた。』

この夜レザノフはオランダ人一行に食事を振舞うのだが別れ際

『通訳の責任者は商館長に再び儀礼の詞を叫んだ。オランダ人たちは五分ぐらい腰をかがめたまま立っていたが、旅行家だけはこの侮辱を逃れようとした。しかし通訳は彼にも儀礼の詞を発し、彼も船室に入り、命令されたように腰をかがめることになった。』

こうして我々は検使(奉行成瀬因幡守の家老、奉行所ナンバー2)を前にして恐ろしく儀式がかった手順があったこと、オランダ人たちが通詞の掛け声で床に膝をつき通詞と同じように臣下のように検使に恭順していた日常を初めて知るのである。ドゥーフの回想記で語られるこのような日本式の恭順は将軍に謁見した時のことのみであったのだがそれは違うようだ。オランダ人は鎖国日本という閉ざされた空間で200年間のしきたりを受け継ぐしかないと自分らに課せられた行為を正当化していたのだろうが、同じヨーロッパ人を前にしてでそういう行動が持つ「屈従」という意味が新鮮に蘇って、恥ずかしいという態度になってしまう。オランダ人が日記に意識して書かなかったこと、あるいは無意識に触れてこなかったこと、両方あるだろう、がレザノフの面前で端無くも(図らずも)露見してしまった瞬間である。

⑨ 謎の男爵

ここで注目しておきたいのはレザノフが言う「旅行家アンジー・グロチンゲルン男爵」の存在である。「長崎オランダ商館日記 四」の125pにこの人物らしい記述がある。「二人の船長とファン・ラウイック・ファン・パブスト氏と共に鯨船に乗って」とある。「長崎オランダ商館日記 四」の注33には「たぶん停泊中のオランダ船乗組みのオランダ人であろう」と推測していることから見て当時の商館員ではなさそうだ。一方、ドゥーフの回想記Recollection of Japanにはこの男爵に相当する人物について次のように記述している。英文版52pに「この夜(10月10日)レザノフが用意した夕食にバタビア(ジャカルタ)駐在の陸軍大尉Van Pabstとともに出席した。彼は重病(恐らくマラリアなどの熱病であろう。低地で湿地の多いバタビア(ジャカルタ)では謎の(当時)熱病が猖獗を極めていてオランダ人が発病後数日で突然死することは日常のことであった)の転地治療のため長崎を訪問中であったという。恐らくこの年入港したオランダ船Maria SusannaかGesina Antoinetteのどちらかで長崎に転地療養に来ていたものと思われる。他の章でも書いているが、ネットによりオランダの検索に飛ぶこともできる。ファン・ラウイック・ファン・パブストで検索するとPieter Herbert van Lawick van Pabst という人名が見つかった。オランダ語だったが、デジタル時代はすぐに日本語に翻訳できる。それによるとVan Lawick 家はオランダ騎士団の家系で代々男爵だという。一方でVan Pabst家は18世紀初頭にプロイセン貴族として認識されたようだ(ヴァンパブストWiki)。この二つのVanを持つ家系があるようで、Pieter Herbertは1793年士官候補生Midshipmanとして東インド会社に勤務し、以降順調に幹部として1834年に引退したようだ。アンジー・グロチンゲルという名を語った理由はわからない。これでわかることは、色んな人物が乗組員という形で日本を訪れていたのだろう。春に長崎に来て秋に帰る。その数か月間を転地療養にあてることは他にもあったのだろう。それは通詞たちも承知していたと思われることを本木庄左衛門がレザノフに助言している。ロシアとの貿易積極派であった庄左衛門は初志叶わず帰国することになったレザノフに

『オランダ船にしかるべき人物を乗せてください。オランダ人たちが秘密を守ることは、私たちが保証します』 

そうすればレザノフが帰国したあとでも貿易が可能です、と熱弁を振るうのだ(「レザノフ日本滞在日記」335p)。つまりいろいろな人間が長崎に渡航していたことを示す証拠である。それは通詞たちも分かっていて、商館長等オランダ人と通詞たちは様々な秘密を共有していたことを示す良い例であろう。さてこの男爵であるが、10月10日ドゥーフ等が再びレザノフを訪れた時にドゥーフに同行してナデジュダ号に乗船したのであるが、食事の後通詞が

『通訳の責任者は商館長に再び儀礼の詞を叫んだ。オランダ人たちは五分ぐらい腰をかがめたまま立っていたが、旅行家だけはこの侮辱を逃れようとした。しかし通訳は彼にも儀礼の詞を発し、彼も船室に入り、命令されたように腰をかがめることになった』(「レザノフ日本滞在日記」57p)

と記している。ドゥーフは通詞の命令で5分も腰をかがめていることが習慣になっていたろうし、来日当初から立場上そうせざるを得ない職務であったからだろう。ドゥーフはオランダに帰国後、レザノフ随行団の一員のラングスドルフが書いた「世界周航記」を読み、そこで彼等がオランダ人を批判していることを知って、回想記で反駁している。「日本の統治者は、我々に特別な服従を要求してはいない。普通の日本人と同じ礼節を要求し、それに我々が従ったに過ぎない。これは日本の習慣であり、世界のどこであれその地に滞在するならその習慣に従うのは当たり前のことである」(Recollection of Japan53p)。だがこのヨーロッパから来て日も浅いと思われる男爵は同じヨーロッパ人であるレザノフの面前でこのような「卑屈な儀礼」をすることを恥ととらえる感覚が健在であったと思われる。このことが私にもう一つのことを思い出させた。「長崎オランダ商館日記 四」のワルデナールとドゥーフの日記を読んでいると聞こえてくる低音の不協和音である。それはワルデナールの日記に特に顕著である。私はそれが出島に閉じ込められ、常にスパイの監視下にあること、オランダ人が不当と思われることを強制されること(五島漂着人の出航地や目的地のごまかし)だと思っていた。だがレザノフが目撃した屈従こそが不協和音の最も大きな要素だったのではないか。通詞の命で腰をかがめること、検使(長崎奉行所のナンバー3か4の役人)の前では膝まずかされたこと。こういう些末な事実をオランダ人は日記や回想記で殆ど語っていない。それはオープンにしたくない恥ずべきことだったからだろう。ドゥーフの不協和音はワルデナールのものと少し違う。それはオランダ本国がもはや存在しないという秘密を隠さなければならない「不安」の要素が 大きいのだ。ドゥーフは仕事の経験が殆どないままアジアへ来て、出島の混乱を見て一旦バタビア(ジャカルタ)へ引き返し翌年に再び長崎へ来た。言わば彼は白紙のようなもので、オランダ商館でのプロトコル(日本式の屈従を強いられることも含めて)を刷り込まれた、アプリオリに受け入れた、という仮説が成り立つ。だが10歳以上年上のワルデナールは違う。彼はBanda諸島というオランダ植民地の中でも重要な香辛料産地で次長や出納長というオランダ東インド会社の中堅管理職を務めたのち、バタビア(ジャカルタ)で3年政庁勤務をして長崎へ来た。ジャワ人や中国人(地主として支配層を占める)たちからかしずかれる存在であった。それだけに彼もまたグロチンゲル男爵と同じように「卑屈な儀礼」を恥じる感覚がドゥーフよりずっと強かったと思われる。彼の自負心がその詳細を書き記していくことを拒否したのだろう。彼は3年でさっさと商館長を交代してバタビア(ジャカルタ)へ帰る。長崎は彼には馴染めないままの異空間であったに違いない。

➉言葉になった「自由への渇望」

上記の③で、「レザノフ滞在日記」では他では見られない通詞の肉声が聞けると書いた。率直に自分の思いを語ったのは本木庄左衛門である。通詞の名門本木家に生まれた庄左衛門はこの時36歳、小通詞筆頭の地位にあった(ナンバー5)。後に蘭学者としても大成する大物であるがこの頃は野心たっぷりの壮年であった。大通詞等はレザノフ対応以外にもオランダ商館の対応、奉行の相談役、貿易実務の対応など多忙であるから日々のレザノフ対応を庄左衛門にかなり任せたようで、レザノフのもとへ訪れることが多く、初めの頃は木蠟の取引をしきりにレザノフに持ち掛けて彼を閉口させてもいた。だがレザノフに慣れ親しむと二人きりの時に饒舌になり、誰にも打ち明けられない心の底の思いをレザノフにぶつけるのである。新暦の11月10日、レザノフと会ってひと月後、彼はレザノフが連れてきた石巻の漂流民についてこう話す。

『庄左衛門は、かなり長い時間居座り、とてもあけっぴろげな態度をとっていた。自分たちの国の馬鹿げた法律を嘲笑し、私たちの船が着いてからというもの、自分が日本人に生まれたことを不幸に思った、また私たちが連れてきた漂流民のことが羨ましい、何故なら彼らは世界をみるととができたのだからとも言い、もし漂流民たちが感受性をもちあわせていれば、世界を見たことだけでも満足すべきであろうと、打ち明けた。そして最後には、私たちの質問に対して、腹立ちまじりにこう答えた。私たちに一体なにがたくさんあるというのですか?人間が生まれたのは、飲んだり、食べたりするためだけではない、学ぶためなのです、それが、人間の糧なのです』

自由に世界を見たい、もっともっと学びたいという庄左衛門の心の叫びが悲痛である。

レザノフの願いが却下されてロシアに帰国することになった4月、彼はこうも言っている。

『いまでも私は、ロシアと通商関係を結ぶことが、どれだけ利益をもたらすか、また今回の日本の行動が、いかに恥ずべきことかを、奉行に言い続けてきました』

これが事実だとしたら、通詞の主だった幹部は相当思い切ったことを奉行に意見していたことになる。二人の奉行は頑迷固陋な江戸の老中よりは頭が柔軟だったろうから、この意見には頭が痛かったに違いない。さらに彼はこれまでの内幕を明かすのである。

『「思い起こして下さい。あなたが滞在中に、あなたに対する対応がしばしば変わったことに気づいたはずです。私たちは度がすぎるくらいていねいな時もあり、時には冷淡に恩われたこともあったかと思います。しかしこれは別にあなたのせいではないのです。幕府の策略が、右に左にと揺れ動いていたのです。それは時にはあなたに有利に、また時に不利になっていたのです。私たちは命じられた通り行動したまでなのです。思い出してください。あなたが自由を与えられず、竹柵の外に一歩たりとも出られないと不平をおっしゃっていた時に、私はあなたに言ったはずです。私たちはあなたに同情などしていません。あなたが、自由を束縛されているのは、一時的なことだけですが、私たちは永遠にそれに堪えていかなくてはならないのですと。私たちの父や祖父たちは、米を食べるだけを楽しみに生活を送っていたのです。そして私たちや私たちの子どもたちも同じようにこんな生活を送っていかねばならないのです。私たちは感情をもつことさえ禁じられているのです」彼はこう熱をこめて語った。ほかの通訳が来たので、彼は話を逸らし、出ていった。』

どうだろうか? 『あなたの束縛は一時のことに過ぎない、私たちは永遠にそれに耐えていかなくてはならない』、という魂の叫びは他の歴史資料にあるだろうか?多分無いに違いない。というのもこの後庄左衛門は二度とこの言葉を口外しないし、フェートン号事件の後は何食わぬ顔をして奉行所の命でドゥーフの尋問(フェートン号事件で幕府はドゥーフが国際情勢について何か隠しているのではないか、と疑い始める。これは後の章で詳述する)に参加しているのだ。レザノフを相手にした時にだけ噴出した本音である。

本音を漏らしたのは庄左衛門だけではない。レザノフ来航が10月9日に来航して2か月後の12月11日、奉行所がレザノフの扱い(レザノフの要求通りに江戸で正式に会談するのか?と問い合わせた件)についての幕府の急使が未だ到着しないことに疑念を抱いたレザノフの詰問に年番大通詞の石橋助左衛門が答えに詰まって、本音を吐くのである。

『彼は、江戸は、おそらくはまだ決定できずにいるのだろうと理由を述べた。どうしてこんなに大変なのか尋ねた。彼は、日本の国は人は多いが、小さな島国であり、このため日本はすべてが小さいと答える。』

日本はすべてが小さい、これはどういう意味か?幕閣の中枢、老中たちの視野が狭く、決定する度量が無い、と告白しているのである。年番大通詞となると通詞社会のその年のトップであり、何度も書いたが年収3千両という体制側の富裕層である。その彼が絶対口にしてはならない幕府の批判を口にしたのである。それが公になれば失職は確実、下手すれば入牢、石橋家の廃絶すらあり得る。レザノフを相手に幕府のうんともすんとも言わない対応に困り果てた助左衛門(それは二人の奉行も同じであったが)がとうとう言ってはならない本音を口にしたのである。これが「レザノフ日本滞在日記」の最大の醍醐味である。

⑪ 日本人の仕事ぶりの緻密さ

レザノフ日本滞在日記には、日本人の仕事の緻密さに驚く記述がある。健康状態がすぐれないレザノフのために幕閣の許可を得て長崎奉行所は梅香崎に彼のための仮館を建設する。ここでの初日の記述を紹介しよう。文化元年11月19日(新暦12月20日)の日記である。

『彼らは屋敷を案内してくれた。屋敷は非常にきれいに仕上がっていた。私のために食堂と四つの部屋、上官たちにも四つの部屋があてがわれた。部屋はみな、日本中で絨毯のかわりに使われている、見事に編まれた新しい畳が敷かれであった。(中略)私の部屋にあった屛風は美しいものだった。炭が入った銅製の大きな三脚、いたるところに疾をはくための大きな陶器の花瓶が置かれていた。またいたるところにさまざまな種類のたくさんのあんどんが置かれていた。台所も美しく仕上げられており、食器だけでなく、肉や魚、野菜、ほかのあらゆるものが用意されていた。庭の美しさは比類のないものであった。』

実はこの仮館を建設するにあたって予定通りに進まずレザノフを怒らせたことがある。だがそれは奉行所の役人たちが完成した仮館を入念にチェックしたためであることも日記で明らかにされる。このような消息はドゥーフが書いたオランダ商館日記では全く分からない。伝聞を記しているからだ。この仮館にレザノフが持ってきた将軍への献上品が運び込まれるのだがその大量さが、さすが大国ロシアと言うべきか、瞬く間に倉庫の一つが満杯になるほどである。その作業について、

『(献上品の)輸送は驚くべき速さで始まった。最初の日だけでひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆りだされたということだ。(中略)。日本人の働きぶりは目を見張らせるものがある。』

と称賛している。ロシアの労働者や技術者と比較してびっくりしたものと推察される。このくだりで面白い記述があるのでそれも紹介しておこう。

『一日中ひっきりなしに、役人たちが次々に挨拶しにやってきた。彼らにコーヒーをごちそうした。みんなコーヒーがたいへん好きだった。』

この中には大田南畝(太田蜀山人)もいたことだろう。レザノフの人気と、舶来ものが大好きな日本人の素顔がよくわかる。

⑫ 日本人の仕事ぶりの厳格さ

次に取り上げたいのは、日本の法治主義の厳格さである。レザノフは日本来航にあたって石巻出身の4人の漂流民を連れてきたのだが、長崎到着後すぐにレザノフの元へ現れた検使は引き渡しを要求した。だがレザノフは奉行に直接引き渡すと拒否したため、実際の引き渡しは江戸からの検使遠山と一緒に二人の奉行と相まみえたあとの4月9日(文化2年3月10日のこととなった。漂流民4人はレザノフと共に梅香崎仮館に居住するのだが、そこで大事件が起こった。漂流民の一人の太十郎(「レザノフ日本滞在日記」。「若宮丸漂流民物語」では多十郎と表記)が日本側に引き渡された後一生投獄されるのではないか、とノイローゼ状態になり、喉の奥に剃刀を突き立てて自殺を図るという悲劇が起こる。その顛末はここでは置いておいて、その捜査に来た奉行所の役人の取り調べに注目したい。「レザノフ日本滞在日記」文化元年12月17日(新暦1805年1月17日)の項である。

『すべての部屋や庭は、役人たちでひしめき合っていた。いたるところで書き取りや、書き写す作業が行なわれていた。何フィートもある長い巻物に文字が埋められていった。あちこちから役人たちがやって来て、リストを持って、事件を目撃した人たちから文書と照らし合わせしながら、口頭で聞き取りをしていた。それもひとりひとりに対して取り調べを行ない、同じように医者の報告書を照らし合わせ、最後に警固兵たちを取り調べた。この調べは夜遅くまで続いた。もしかしたら朝まで続いたのかもしれない。』

上記の捜査の様子は警視庁のエリートである捜査1課のもの、と言われても誰も疑いを持たないだろう。レザノフを驚かせた奉行所の捜査の緻密さ、厳格さの徹底ぶり。これこそ徳川幕府の支配が厳密な法治主義で行われていたことの証拠である。三百有余あった藩には程度の差はあったろうが、幕府直轄領であった長崎ではいい加減な捜査は無かったと言っても間違いではあるまい。19世紀初頭の世界では、恐らく一番厳格な法治社会を日本は完成させていたとみることが出来よう。我々はこのことにもっと誇りをもって幕府の治世を考えるべきであろう。

⑬梅香崎仮館の場所を特定する

レザノフ来航から217年、今の長崎にはレザノフのために建てられた仮館はもちろん跡形もない。出島だけが辛うじて明治以降の長崎近代産業化の生贄とならず生き延びたのだが、それだって実は一度は破壊された(中島川側の土手が残っただけだった)のを平成になって観光資源のために再現したのが今の出島である。当時あれだけ長崎の人々が熱狂したレザノフ来航の痕跡は全く無いのだ。まるで夢の中の出来事だったかのように。そう、私はレザノフのファンになったのだった。日本滞在日記を読み終えた時には「レザノフ」ロスとも言うべき虚脱感に陥った。長崎の人々が彼の帰国を悲しみ、彼の目的が果たせなかったことを自分の責任のように感じた別れの日の感情が日記読者の私にも舞い降りたのだった。彼はどこで過ごしたのか?彼の仮館を特定しようと思い立ち、2021年の7月、梅雨の長崎を歩いたのだった。ヒントは、いくつかあった。梅香崎(当時の記録では梅ヶ崎とも書いた)という地名、出島の南東にあり時々レザノフとドゥーフが手を振り合ったこともあるという距離感(500mから600ⅿか?)、彼が『日陰で庭のぬかるみが決して乾くことのない湿った場所』になぜ健康に不安のある彼を閉じ込めておくのかと怒ったこと、

すぐそばまで海が迫っておりナデジュダ号から上陸する時に難儀したこと、ラングスドルフが何度も気球を上げた(当然役人たちが夢中になり、飛翔を催促した)場所に記念碑がある、ということを参考にした。布袋厚氏が復元した長崎惣町地図(「復元!江戸時代の長崎」)によると、梅が埼という地名の場所には米蔵や遠見番唐人番長屋があるが、その西に海に突き出た場所がある。そこは新地から行くとオランダ坂へ向かう途中で、急な崖の上に活水女子大学が聳えている。全くの偶然だったがここで気球を上げたという記念碑を発見した。そこは元は市民病院で現在は巨大なメディカルセンターになっている。江戸時代は活水女子大下のオランダ坂へ向かう道路に付近まで海が迫っており、その辺りに仮館を建設したのだろ。昔は長崎の周縁部だったろうが今は中心地に近い場所である。毎日、午前中は南側の高い崖が日差しを遮っていただろう。

⑭ドゥーフの狂喜

このレザノフの帰国を巡って大田南畝が貴重な情報を提供してくれている。「レザノフ日本滞在日記」の訳注(421p)に大田南畝が通詞の今村金兵衛から聞いた話が載っている。それを掲載しよう。

「阿蘭陀の加比丹此度、魯西亜出帆の翌々日、阿蘭陀通詞をまねき、阿蘭陀人は阿蘭陀料理の卓、日本人へは日本料理にて、大饗をせしといふ。夜八ツ時(午前二時)頃まで、物くひ、酒のみ、歌うたひ、裸体なりてさはぎし也。是は魯西亜交易の御漁なきを悦びて、祝ひの心とみえたり」と『寝浦雑緩同(『大田南歎全集』第八巻)

訳者の大島幹雄氏は実に丁寧にレザノフ関連の資料を収集して的確な訳注を付するという作業をされたが、私には大変ありがたく、感謝のしようがないほどだ。太田南畝によればレザノフ出港の翌々日、ドゥーフはロシアとの通商がならなかった(オランダの独占交易特権が守られた)として、通詞らを招き、夜更けの2時まで飲めや歌えやの大宴会を開き、裸になってまで騒いだ、と言うのである。これは一見極めて面妖なことに思える。というのはレザノフとドゥーフは来航直後に会ってからは互いの面会を禁じられ、奉行所の許す範囲で(たまには通詞たちが気を利かせて)手紙のやり取りや贈り物を交換したり、レザノフのためにドゥーフが暖かい服を都合したり、レザノフがドゥーフに託してロシア本国への報告書をバタビア(ジャカルタ)に帰るオランダ船に託したり、と異国に孤立するヨーロッパ人どうしとして丁寧かつ気配りに満ちた付き合いをしていたからだ。レザノフの日記にもドゥーフが書いたオランダ商館日記にも、両者の記述の齟齬は全く見られない。だから私は大田南畝のこの記事を読んで愕然としたのである。ドゥーフに裏切られたという思いまで沸き上がったほどだ。実際レザノフの帰国直前、ドゥーフはオランダ商館日記の4月12日の項に「レザノフからの別れの贈り物の返礼品とともに短い手紙を書いた」と記してはいるがその内容は書いていない。それを大島幹雄氏が「レザノフ日本滞在日記」420pに収録されている。その文章は「(レザノフの長い滞在をねぎらいつつ)本来の来航の目的が達せられなかったこと、その心中を察するに余りあります」ということを書いたことが明らかにされている。長崎で僅か数百メートルの距離を隔てて贈り物と短い手紙で交流するしかなかった異国人同士としては当然のねぎらいであるが、彼が長崎を去った2日後には大田南畝の言う「通詞たちを交えた大宴会」を挙行したことは、ドゥーフの表の顔と裏の顔を見事に示していると言えるだろう。レザノフに「我々でしたら彼らに命令を下すことができるのです。しかも彼らは商人です」と言った石橋助左衛門、「私たち通訳は、ここではとても大きな力を持っているのです。したがってオランダ人たちは、私たちの言う事に従わなくてはなりません」と言った本木庄左衛門、幕府の内情を打ち明けてレザノフの目的が叶うことを願った馬場為八郎。彼等もまた職務上この宴会に出席したのだろうか?もしそうだったら、その心の内はどうだったのだろう、と思うのである。

だがこれはドゥーフがいかに母国に忠実で、自分のミッションを果たすためには最大限の努力を惜しまなかったことの表れでもある。当時地球のどこにも存在しないネーデルランド連邦共和国の日本における代表という虚構を守ること、その排他的貿易独占権(唐人を除く)を死守すること、がドゥーフの任務であって、レザノフとの友情厚誼は別物であった。ドゥーフはレザノフ来航後6日の10月15日には、長崎奉行成瀬因幡守に宛てた文書を用意したのだ。一部引用しよう。

ここに上述したようにわれわれが160年もの間享受してきた特権、すなわち、他のヨーロッパ国民排除のもとで当地で自由に通商することを、閣下によって許されているという点を、閣下に忘れていただきたくない、と。私が当地での5年間の滞在の聞に日本国民の誠意について得た認識は、私に閣下がオランダ人がかくも長く保持して来た特権を縮小されるようなことはないだろうと確信させます。

長崎奉行にこれまでの経緯(これまでも見てきたように徳川幕府の官僚は権現様(家康)が定めた祖法に逆らうことは出来ないことを見越しての念押し)の再確認と排他的特権の擁護をリマインドしたのである。彼はあくまでも忠良なオランダ人であり、その立場を守り続けて、オランダがナポレオンの軛(くびき)から解放されると母国に復帰したオランダ国王から1817年最高勲章を授与されることになる。そのようなドゥーフのファンであった私だが、この宴会のことを知ると砂を噛むような思いがどうしても湧いてくる。これもレザノフの日記に心を奪われたせいである。

このレザノフはどのような事を目指して日本へ来たのか?その後の彼はどうなったのか?次の章で見ていこう。