7 日誌記録者ストックデール

Charles Boddam Stockdale チャールス・ボダム・ストックデール。 彼がフェートン号航海日誌の記録者であることはよく知られている。日誌の表紙に自署しているからだ。だが、彼が誰であるのか、どういう職位か、その経歴は?それらはこれまで知られていなかった。知ることが出来なかった、と言った方が正しい。彼が誰なのかを解き明かす資料がなかったからだ。

だが、いまデジタルの時代である。インターネットが普及した20世紀の末からいろいろな資料のデジタル化が始まった。21世紀に入って世界中の公文書館や博物館が所有する歴史的資料のデジタル化と公開を始めた。もちろん日本も例外ではない。国会図書館を始めとして取り組みが進んでいる。

英国は歴史的資料の保管や公開に最も先進的に取り組んでいる国の一つである。Royal Navyの資料も豊富である。敗戦時に膨大な資料を焼却した日本帝国海軍省や陸軍省とは違う。戦争に敗北して外国軍の占領を受けたことのない国の強みだろう。

当時名を馳せたフリゲート艦の艦長やフェートン号の歴代艦長の名前をネットで探索していくと、”the National Archives”国立公文書館を筆頭にRoyal Navyに関するいろいろなサイトが公開されていることが分かった。これらは自由に閲覧や資料のダウンロードが出来る。その中にストックデールの記録を発見できた!

2016年8月、事件から208年後、歴史の霧の中からついにStockdaleがその姿を現したのだ。

”the National Archives”で発見したAdmiralty(海軍省)作成のストックデールの経歴書である。

Stockdaleの頁
“Phaeton/8 July 1808/Masters Mate/22 May 1811”

その第一行は“1808年7月8日Master’s Mateマスターズメイトとしてフェートン号に配属 1811年5月22日(退艦)”とある。なんとストックデールは、フェートン号の出航直前の8日に乗艦したのだ。職制はマスターズメイトであった。「航海士」という役職である。

杉浦昭典名誉教授によると、もともと船の指揮者はMasterマスター(船長)であった。それが武装した時、戦闘員の指揮者がCommanderコマンダーと呼ばれた。(余談ではあるが、海洋作家パトリック・オブライエン原作ラッセル・クロー主演の“Master&Commander”という映画があり、杉浦先生はマスターとコマンダーの役割分担をどう描くのか映画館は足を運んだそうだ。映画はナポレオン戦争時が舞台で、すでに両職は統合されたキャプテンになっていた)。私椋船(海賊)上がりの英海軍が近代海軍への歩みの中で職制が整備されていくと、二つの機能は収斂し、艦の総責任者でかつ戦闘指揮者のCaptainキャプテン(艦長)として定着した。

杉浦先生によると、フリゲート艦の幹部は、艦長に次いで士官が3名、続いて航海士たるマスターズメイト2名、という。つまりストックデールはフェートン号のNo5もしくはNo6となる。マスターズメイト2名のうちどちらかが先任(上級)のNo5であるが、ストックデールはどうだったろう?

”National Biographical Dictionary”(デジタル版)によると、彼は1804年6月22日に海軍に入った。生年は不詳だ。エドワードペリュー提督(この名前は覚えておいてほしい。フェートン号の航海に大きな関連がある人物だ)が指揮する東インド艦隊のCulloden号にMidshipman(士官候補生)として乗艦した。艦長はクリストファー・コール。この時代のAdmiralty海軍省には組織的徴兵システムはまだないので、ペリュー提督もしくはコール艦長の遠縁もしくは知人の子息の可能性が高い。ストックデールは軍歴をインドで始めたことになる。出身地の記載はないので、インドで生まれたか、英国出身ならペリュー提督の出身地Cornwall地方の縁者ではるかにインドへ来て海軍に入ったのかもしれない。

1804年乗艦時にストックデールは何歳だったか?将来艦長やあわよくば提督を目指す良家の子供は10歳未満でMidshipmanとして乗艦する例が多くみられる。もちろん艦長との強力なコネが必要だ。ストックデールは恐らく10歳前後かせいぜい15歳あたりまでと思われる。杉浦先生の資料によればフェートン号クラスのフリゲート艦には6名のMidshipmanがいる。子供だが職制上はマスターズメイトに次ぐ。艦橋ブリッジ(コーターデッキ)にも立ち入りできる艦の幹部だ。潮焼けした老練な水兵が子供のようなMidshipmanに叱られる光景が見られることになる。

制服を着た息子を祝福する家族

士官候補生としての服装や装具一式を自前で調達しての乗艦だから、裕福な家庭の子供だけということになる。

Midshipman

2年後の1806年、英海軍によるバタヴィア攻撃(長崎の出島商館を管理するバタビア総督府がある。今のジャカルタ)とサマラン占領と翌年オランダをインドから一掃する作戦にCullodenの一員として参加している。 十代ながらストックデールは遠洋航海(マドラスからジャカルタ)や戦闘の経験もしていることになる。そして1808年7月、ストックデールはマスターズメイトに昇進し、歴戦のフリゲート艦フェートン号に乗艦したのだ。スターズメイト2名のうち、名称不明のもう1名が先任であろうから、ストックデールは(今でいうなら)2等航海士、フェートン号のNo6とみてよさそうだ。

フェートン号に乗艦した時ストックデールが持ち込んだ行李には、イラストにあるように航海士の必需品六分儀と真新しい羊革装の日誌があった。縦40㎝横30㎝、まるで百科事典のように大きく重い航海日誌の最初のページにインクで Log of the proceedings of His Majesty’s Ship Phaeton と記した。その後に(38guns)と薄く鉛筆で書いた跡がある。

マスターズメイトにとって航海日誌と書くということは重大な意味がある。将来、Admiralty海軍省で行われるLieutenant(士官)昇進試験(面接)の際に、自筆の航海日誌が彼の技量経験判定の大きな鍵になるからだ。ストックデールの日誌は「1808年7月9日より1809年9月14日」となっている。1810年にはフェートン号とともにインド洋のフランス海軍拠点の攻撃作戦に参加後、翌1811年砲74門の戦艦Illustriousイラストリアスに転属、ジャワのバタヴィア攻略作戦に参加、しばし士官代理を務めたのち、1812年5月8日待望の士官Lieutenant昇進を遂げる。同年イギリスに帰国を命じられ、砲80門のOcean、砲72門のWellingtonなどに乗艦後、1848年1848年に退役している。

長崎歴史文化博物館で、私の生涯のテーマとなったフェートン号の航海日誌の現物を目の当たりにした時、私はかなりの興奮状態だったがすぐ隣に「日誌」を保管庫から取り出してきた係員が私の取り扱いに乱暴なところがないか「見張って」いる状態だったので、浮ついてはいたが落ち着いたふりをせねばならず、そのためいろいろなやるべきことをその時には思いつかなかった。長い間思い続けた人と初めて出会いが叶ったとき、感激のあまりその場を早く立ち去りたくなる思いに近かった。

「日誌」は『フェートン號航海日誌 市立長崎博物館蔵』という紙が貼られた白木づくりの箱に収まっていた。表紙の革は深い茶色で細かい模様はほとんど判読できない。二百年の歳月がうなずける。前段で縦40センチ横30センチと書いたが、想像を超える大きさだった。だが、表紙をめくると、そこには1808年がほんの数年前のように感じるほど鮮やかな保存状態の良い頁が現れた。当時の紙質が良かったのだろう。それ以上に人目に触れる機会がほとんどなかったのではあるまいか。

博物館が日誌を保管した木箱

戦前、小野三平という私のような個人研究家が2か月ほど日参して翻訳に取り組んだ。1970年代に、私が大量の複写をお願いした。そのあと、全内容をマイクロフィルム化した作業があるはずだ。(前にマイクロフィルムを見るだけの許可が出た時は、フィルムの劣化がひどくて役に立たなかった。)そのほかに何人の研究家がこの日誌原典に取り組んだだろうか。おそらくそう多くないと思われる。それが幸いしたのか、「日誌」の各頁は表紙とは違って生々しく息づいているようだった。私は不思議な感覚に襲われた。私が解読に取り組んできた「日誌」は写真複写したものとそれをスキャナでデジタル化したものである。それは「資料」とか「ファイル」として認識されていた。だが今眼前に見ているものには肉筆の文章が踊っている。歴史的資料を実見する経験のなかった私には、「資料」とか「ファイル」が実はこの肉筆である、と認識する心構えがなかったのだ。異次元のものを見ている、と言ってもよい感覚だった。

私はこの時初めてストックデールの肉体と日常を感じた。一文字一文字の緻密なペンの流れ。彼は狭い(恐ろしく狭い)自室で、船体の揺れに抗しながらランプの光を頼りに日誌を書いている。日ごとの作業量に応じて、1ページが2日分であったり、1日分であったりする。もとはただの白紙である頁にその日の作業量に応じて正確な表を作成することから始まったに違いない。天候、風力と風の方角、主な操帆作業の記録、正午の天測と位置の推定、海流測定を実施した時の記録、海底深度の記録、望見した陸地の名前と方向。だが、どこにも私見は一切記されない。簡潔だが、ミスや怠惰の許されない連日の記述が続く。ストックデールは恐ろしく達筆である。そのうえ激しい風雨にさらされる日も、記述に乱れがなく、書き損じも無い。時には頁の空きスペースで位置推定の計算を行った個所もあるが、そこすら書き間違いを書き潰したりした形跡がない。昼間、艦橋に詰めながらポケットのメモ用紙にすべての記録事項を書きとめ、深夜それをこの高価な羊革装の「日誌」に清書したとしか考えられない。なんという勤勉、なんという忍耐、なんという愚直。フェートン号がインド洋艦隊に配属さる前にカリブ海で活動していた時期の航海日誌も残っているが、ストックデールほどの緻密さも達筆さもない。見比べるとストックデールの「日誌」の見事さが際立つのである。

ストックデールは優秀な会計士的な着実さと生真面目さを持った人物だった。彼は唯一、長崎港に侵入した翌朝、私見を1頁にわたって書き連ねている。この頁にだけ、まだ若いストックデールの柔らかな心情と感動がようやく姿を見せる。それは後述する。

ストックデールは提督はもちろんCaptain艦長に昇格することもなかった。イギリスへ帰国後1846年9月にOcean(80砲門の戦艦)に配属されるまでの詳細な記録が”National Biographical Dictionary”にもない。その2年後には退役している。歴史的な戦闘にも参加したが特に勲功はなかったようだ。勤勉なだけに海軍士官としては凡庸だったのだろう。唯一、恐ろしく緻密な日誌の書き手としての相貌を残したのみでストックデールは大洋の波間、あるいは歴史のかなたに消えていった。無数の海軍士官たちとともに沈黙したまま。”the National Archives”の最後の一行は「1864年3月6日死亡」と記されている。“Sailing Navy”というサイトに死亡したのはプリマス(軍港)にてとの記述がある。

ストックデール関連の資料を探していると、「海軍士官で、現在はCarnatic地方(マドラス一帯)のNabobネイボッブ(インド成金)の負債管理会社の事務員」とのストックデールの記録を見つけた(年代不明)。海軍退役後の、実直なストックデールらしい晩年の仕事であったのであろう。これが最後の足跡である。

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